土岐頼芸
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土岐 頼芸(とき よりなり(よりよし、よりあきとも))、文亀2年(1502年) - 天正10年12月4日(1582年12月28日))は、美濃の守護大名。土岐政房の子で、次男。兄に土岐頼武、弟に土岐治頼ら。室は六角定頼の娘、一色義清の娘。子に土岐頼栄、土岐頼次ほか。
斎藤道三らに擁立され、土岐氏当主で兄の土岐頼武及びその子土岐頼純の嫡流と対立、美濃とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、土岐氏当主、美濃国守護となった。
天文4年(1535年)7月1日の長良川大洪水で守護所枝広館を流され、稲葉山の麓に移る。天文12年(1543年)、頼純の籠もる大桑城が落城したため、鷺山城へ移る。天文20年(1551年)頃、斎藤道三に追放され、妹の嫁ぎ先である近江の六角氏、続いて実弟の治頼がいる常陸に寄寓、のち甲斐の武田氏に身を寄せる。この間に病によって失明する。最後は旧臣であった稲葉一鉄のはからいで美濃に戻り、死去したといわれている。
文化人としても知られ、幾つもの書画を書き残している。特に鷹の絵を得意とし、彼の描いた鷹の絵は「土岐の鷹」として珍重されている。
道三の子で、のちに美濃国稲葉山城主となる斎藤義龍の生母深芳野は頼芸の愛妾で、享禄元年(1528年)に頼芸から道三に拝領されている。翌享禄2年(1529年)に義龍が生まれている出生時期や、道三と義龍が義絶していることから、義龍を頼芸実子する説もあるが、江戸時代の創作であるとも。