土井利位
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土井 利位(どい としつら、寛政元年5月22日(1789年6月15日) - 嘉永元年7月2日(1848年7月31日))は江戸時代の大名。下総国古河藩の藩主をつとめた。官位は従五位下、のち従四位下・侍従。官職は大炊頭。天保の改革を行った老中首座・水野忠邦の同僚老中であったが、忠邦が打ち出した上地令に反対し、反水野の旗頭となる。水野の失脚後は老中首座となって財政再建を受け継いたが、水野が10ヵ月後に老中首座に返り咲くと、閣内に居辛くなり、辞任、雁間席。水野忠邦も間もなく失脚し、政権はやがて阿部正弘に続いてゆくことになる。 また、日本で初めて雪の結晶を顕微鏡で観察した人物として知られている。
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[編集] 「土井殿大師」(どいどのだいし)
鏡如庵(きょうにょあん)の通称である、「どんどろ大師」の語源は、土井利位が大坂城代の在任中(1834年~1837年)の大坂城代屋敷が、鏡如庵(きょうにょあん)の近くにあったために、土井利位が鏡如庵に祀られている弘法大師を深く信仰していたために、鏡如庵に参拝したために「土井殿大師」(どいどのだいし)の名前が起こり、やがて「どんどろ大師」へ転訛したと伝えられる。鏡如庵は、明治時代初期に廃寺となり、その跡地には現在、どんどろ大師 善福寺(高野山真言宗)がある。現在、境内に土井氏と刻まれた五輪塔が残っている。
歌舞伎「傾城阿波の鳴門」・「国訛嫩笈摺(くになまりふたばのおいずる)」に「どんどろ大師 門前の場」がある。
[編集] 年譜
- 寛政元年(1789年)、分家筋に当たる刈谷土井家の土井利徳の四男として三河国刈谷(現在の愛知県刈谷市)に生まれる。25歳で古河藩主土井利厚の養子となる。
- 文政5年(1822年)、養父の死去に伴い古河藩主となる。
- 文政8年(1825年)、寺社奉行に就任(1829年に退任したが、1830年~1834年に再任)。
- 天保5年(1834年)から9年(1838年)にかけて大坂城代・京都所司代・江戸城西之丸老中を歴任。大坂城代在任中、大塩平八郎の乱を鎮圧。
- 天保10年、老中になる。
- 天保15年、老中を辞任。
- 嘉永元年(1848年)、没。
[編集] 雪華図説
土井利位は家老であり蘭学者の鷹見泉石の協力の下、20年にわたり雪の結晶を観察し、雪の結晶を『雪華』と命名して、観察結果を「雪華図説」「続雪華図説」にまとめ出版した。「雪華図説」「続雪華図説」は私家版で出版数も少なかったが、掲載されている結晶図はテキスタイルパターンとして取り入れられ、雪華模様の衣装が流行した。そのため、庶民から『雪の殿様』の愛称で親しまれた。
雪華模様の別名『大炊模様』は、利位の官職からとられている。