四つ木
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四つ木(よつぎ)は東京都葛飾区西部にある地名。現在の住居表示には四つ木1丁目から5丁目までがあり、この地域の人口は12,590人(2005年5月1日現在)。
南方に東四つ木(ひがしよつぎ)が隣接しており、この地域の人口は13,765人(2005年5月1日現在)。
なお、「四つ木」の表記は、1964年、住居表示施行にあわせて「四ツ木」、「四木」などの候補の中から新たに選定されたものである。
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[編集] 地理
荒川東岸地域で、対岸は墨田区になる。町域は四つ木5丁目を除けば、東端を南北に走る平和橋通りと荒川に挟まれた方形の土地であり、北は堀切、南は東四つ木にそれぞれ接している。5丁目は平和橋通りの東、国道6号と曳舟川(葛西用水)に挟まれた楔形の土地である。東にある立石とは地理的にも歴史的にも近い関係にある。
道路は国道6号が町域の中央を東西に通り、西端の四ツ木橋の上を首都高速道路中央環状線が立体交差していて、そこに四つ木出入口が設けられている。
四つ木出入口の約400m南に京成押上線の四ツ木駅がある。四ツ木駅の南側には渋江商店街、北側にはまいろーど四つ木商店街がある。 まいろーど四つ木商店街の中間点付近に葛西清重の邸宅跡といわれる西光寺があり、その西隣には清重の墳墓もある。商店街の終点付近は平和橋通りに達しており、周辺に葛飾郵便局、イトーヨーカドー四つ木店がある。 町内は住宅地の中に中小の工場が点在している。
隣接する東四つ木南端の荒川沿いには木根川薬師がある。
[編集] 歴史
「四ツ木」の名の起こりには、地域に大木が4本あったという説、源頼朝が地域を通過したのが四ツ過ぎだったという説、西光寺の聖徳太子像が四本の木を組み合わせて作られていることに由来するという説、貴人の世継ぎが住んでいたという説、古代の官道の通過点で交通の要所であり、四辻があったという説など様々あるが実際のところははっきりしない。確実なのは江戸時代はじめに、「四ツ木新田村」が周辺から別れてこの地に起こったということである。
一方、周辺はかつて渋江(しぶえ)と呼ばれており、こちらは室町時代の「下総国葛西御厨注文」にさかのぼることができる。
江戸時代、この地は農村地帯であったが、本所上水(曳舟川・葛西用水)と綾瀬川が交差する水郷地域であったので舟運も利用でき、曳舟の始点はこの地域にあった。江戸から近かったこともあり、西光寺(四つ木1-25-8)、客人大権現(現・渋江白髭神社、東四つ木4-36-18)、木根川薬師(青竜山薬王院浄光寺、東四つ木1-5-9 )などに参詣したり、更に柴又帝釈天などへの小旅行をする人々もいたようである。
明治に入ると、周辺地域とともに当初は小菅県、次いで東京府に属することになったが、明治22年(1889年)の市制町村制施行により立石村に組み込まれることになった。明治24年(1891年)には、堀切にある菖蒲園と同様の施設、吉野園が開園した。(現・四ツ木中学校、昭和10年代に閉園。)
大正元年(1912年)、京成電気軌道が開通し、四ツ木駅が開設される。当初、現在とルートは異なっており現在のまいろーど四つ木の東側の道路上を走っていた。
大正3年(1914年)、本田渋江町に千種セルロイド工場が操業開始したのを皮切りに、四ツ木にはセルロイド工場が集まってきた。当時の生産品の様子などは中川の対岸にあるセキグチドールハウス(西新小岩5-2-11)で見ることができる。
戦後、昭和27年(1952年)に新たに四ツ木橋が架橋され、都市化の波が押し寄せる。昭和58年(1983年)には四つ木出入口が開通した。そのような中、地域の沼地は埋め立てられ、曳舟川やその他の水路は暗渠化していったが、平成元年(1989年)曳舟川のあとをフィールドミュージアムとして残す計画が始まり、この曳舟川親水公園は平成12年(2000年)にほぼ完成をみた。
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