咸豊帝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
咸豊帝(かんぽうてい、道光十一年六月九日(1831年) - 咸豊十一年七月十七日(1861年) 在位1850年 - 1861年)は中国清朝の九代目皇帝。諱は奕詝(詝は貯の編をごんべんに変えたもの)。廟号は文宗(ぶんそう)。日本では在世時の元号の咸豊を取って咸豊帝と呼ばれる。
道光帝の第四子として生まれる。母は孝全成皇后。道光帝が死去した道光三十年十二月十日(太陽暦では既に年が明けた1月11日)に太平天国の乱が勃発し、平行して1858年にはアロー戦争(第二次アヘン戦争)に敗北し天津条約を結ばされた。この条約により北京への使臣常駐、キリスト教布教の公認、アヘン輸入の公認などを認めさせられる事になった。これにロシアも乗じて愛琿条約を結ばされた。
1860年、この条約にも満足しなかった英仏連合軍は更に清軍を挑発する事で戦火を開き、北京にまで攻め上った。咸豊帝は粛順の言を容れ、北京を恭親王に任せて熱河へ撤退した。恭親王は英仏連合軍がやってくるとどこかに隠れてしまった。皇帝のいなくなった北京で英仏は円明園の略奪を行い、財宝の無くなった円明園に放火して証拠を隠滅した。
その後に恭親王を通じて北京条約を結んだ。この条約により天津条約の内容に加えて天津の開港、イギリスへの九竜半島割譲などを認めさせられた。
北京条約締結の翌年に咸豊帝は死去した。清東陵に葬られた。
外交的に帝国主義諸国への大幅な譲歩を迫られ、内では太平天国を未だ鎮圧できないでいた清政府は中国の支配者たる資格を失ってきた。