和気清麻呂
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和気清麻呂(わけのきよまろ、733年(天平5年) - 799年4月4日(延暦18年2月21日))は奈良時代末期から平安時代初期の高級官僚。備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。
[編集] 経歴
769年(神護景雲3年)、女帝孝謙天皇(称徳天皇)による弓削道鏡の取り立てに絡み、宇佐八幡宮における神託事件で天皇の逆鱗に触れ、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅国(現在の鹿児島県)へ遠島となった。道鏡失脚後、名誉回復されて京に戻されたものの、程なく地方官へと転出させられて不遇の時代を過ごす。だが、桓武朝で実務官僚として重用されて高官となった。平安遷都の建設に進言し自ら造営大夫として尽力した。785年(延暦4年)には、神崎川と淀川を直結させる工事を行い平安京方面への物流路を確保した。その後、788年に上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に注ぐ工事を行ったが失敗している(大阪市天王寺区の茶臼山にある河底池はその名残りとされ、「和気橋」という名称の橋がある)。また、民部卿として民部大輔菅野真道とともに庶政の刷新にあたった。 桓武天皇の勅命により天皇の母高野新笠の出身氏族和氏の系譜を編纂し、和氏譜として撰上した。
姉の和気広虫(法均尼)は夫・葛城戸主(かつらぎのへぬし)とともに、孤児救済事業で知られる。
1851年(嘉永4年)、孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて「護王大明神」の神号を贈った。1874年(明治7年)、神護寺の境内にあった和気清麻呂を祀った廟は護王神社と改称され別格官幣社に列し、1886年(明治19年)、明治天皇の勅命により、神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座した。 また、出身地の岡山県和気町には、和気氏一族の氏神和気神社が鎮座し、和気清麻呂・和気広虫が祀られている。
なお、宇佐へ配流の際に猪によって難事を救われたとの伝説(北九州市小倉北区など)から、護王神社・和気神社などでは狛犬の代わりに「狛猪」が置かれている。 戦前の「皇国史観」の元では楠木正成などとならぶ勤皇の忠臣と見なされ、紙幣(ろ拾圓券)に肖像(想像)が印刷された。 現在でも忠臣とされ、東京都千代田区大手町の気象庁付近や、岡山県和気町の和気神社境内など、各地に銅像がある。