周泰
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周泰(しゅうたい、 Zhou Tai ?-225年?)は、中国後漢末から三国時代の呉の武将。字は幼平。子は周邵・周承。
九江郡下蔡の人。武勇に優れた勇将で、蒋欽とは親友の間柄で、ともに孫策に仕えた。孫策の死後は孫権に仕えた。孫権が宣城を攻めたとき、山越の反乱軍に襲われて命が危うかったことがあるが、このとき周泰は、孫権を身を挺して救うという大功績を挙げ、体に十二ヶ所の傷を負った。春穀の県長に任命される。
赤壁の戦いで周瑜にしたがって、曹操の攻撃を防いだ。濡須では攻めてきた曹操軍と戦い、曹操を撤退させた。平虜将軍に就任し、濡須の督になる。その際、徐盛や朱然が周泰の指揮下に入って戦うことを嫌がった為、孫権は周泰のために宴を開いて、周泰に服を脱がせ、孫権を守るために全身に刻まれた傷を見せこれを褒め称え、彼らに周泰の指揮下に入ることを自身から納得させたと言われている。後に漢中太守に任じられ、奮威将軍に就任し、陵陽侯に封じられた。