君原健二
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男子 陸上競技 | ||
銀 | 1968 | マラソン |
君原 健二(きみはら けんじ、1941年3月20日 - )は日本の男子マラソン選手。1960年~1970代前半の日本の男子マラソン第1次黄金時代に活躍した、日本が誇る名ランナーである。特にオリンピックに3度出場して、すべて10位以内に入る偉業を達成した。福岡県北九州市出身。
[編集] 人物・来歴
中学時代、友人から駅伝クラブに入るよう勧められ、断り切れずに陸上を始める。福岡県立戸畑中央高等学校時代はインターハイでも予選落ちを経験するなど、目立った選手ではなかった。高校を卒業後、八幡製鉄(現・新日本製鐵)に入社。(八幡製鉄陸上部が長距離を強化することになり、卒業直前になってようやく入社が決まったという)ここで高橋進の指導を受けて、マラソンランナーとして成長する。初マラソンは1962年の朝日国際マラソン(現・福岡国際マラソン)で、3位に入賞。その後も好成績を重ね、1964年の東京オリンピックの代表に選ばれる。
東京オリンピックに際しては、日本のマラソン代表3人(他に円谷幸吉、寺沢徹)の中でもっともメダルに近いという下馬評だった。円谷はどちらかといえばトラックと駅伝の選手というイメージが強く、マラソン経験が少ないことから、有力候補とは目されていなかった。しかし、迎えたオリンピック本番ではプレッシャーに潰されて実力を出し切れず8位(当時、オリンピックの入賞は6位までだった)。一方の円谷は銅メダルを獲得する。円谷とは代表として半年間ともに練習を重ねたことから無二の親友ともなっていたが、その晩は宿舎で床についた円谷に羨望と嫉妬と賞賛の入り交じった複雑な感情を抱き眠れなかったという。
東京オリンピック直後に箱根駅伝チーム強化をもくろむ河野洋平の肝入りで 早稲田大学入学の勧誘を受けいったんは入学を決意、上京するが 最終的に『自分はすでに大学卒業の年齢を過ぎている。』として断念した。
東京オリンピックの失敗は尾を引きなかなか立ち直れなかった。コーチの高橋は君原に結婚を許した。このあと次第に復帰し、 1966年のボストンマラソンでは優勝を果たす。メキシコオリンピックをめざしていた1968年1月、故障に苦しんでいた円谷が自殺し、大きな衝撃を受ける。そのメキシコオリンピックの代表選考は難航し、君原よりも選考会のタイムが上回った采谷義秋との比較になったが、君原に決定する。メキシコ五輪本番では前回の無念を晴らす銀メダルを獲得し、選考過程での疑問を跳ね返した。
31歳となったミュンヘンオリンピックにも代表として選ばれ、5位入賞を果たす。戦後の男子マラソン代表では2大会連続入賞はほかに中山竹通しかいないが、君原の場合、今日のルールであれば3大会連続に相当する記録である。翌年、競技の第一線を退く。その後もマラソン大会には出場を続けており、今日まで出場したすべてのレースに完走している。
現在は北九州市教育委員会委員長の傍ら、講演活動や市民マラソンへのゲスト出場をしている。
コーチの高橋とは指導方法をめぐってしばしば対立した。その内容は著書「マラソンと青春」で知ることができる。また、首を傾けて走る独特のフォームでも知られた。
今でも毎年円谷の墓参は欠かさず、好物だったビールを墓石にかけることが習慣になっている。
[編集] 主な戦績
- 1963年第18回毎日マラソン 優勝 2時間20分24秒8
- 1964年4月12日 第12回日本選手権兼第19回毎日マラソン 優勝 2時間17分11秒
- 1964年10月 東京オリンピック男子マラソン競技 8位
- 1966年2月13日 第15回別府大分毎日マラソン 3位
- 1966年4月19日 第70回ボストンマラソン 優勝 2時間17分11秒
- 1968年6月15日 第48回ポリテクニック・マラソン(ロンドン) 優勝 2時間15分15秒
- 1968年10月 メキシコオリンピック銀メダル 2時間23分31秒
- 1969年7月20日 第1回マンチェスター・マラソン(マンチェスター) 7位
- 1970年2月8日 第19回別府大分毎日マラソン 優勝 2時間17分12秒
- 1971年2月7日 第20回別府大分毎日マラソン 優勝 2時間16分52秒
- 1972年8月 ミュンヘンオリンピック5位入賞
- 1972年12月3日 第7回福岡国際マラソン 5位
- 1973年2月4日 第22回別府大分毎日マラソン 優勝 2時間14分55秒
- その他主要大会優勝、上位入賞多数
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