吉見正頼
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吉見正頼(よしみまさより、永正10年(1513年) - 天正16年(1588年))は石見の豪族吉見氏の当主。吉見頼興の子。
吉見氏は鎌倉幕府初代将軍 源頼朝の弟 源範頼を遠祖とする源氏の名門であり、正頼の家系は傍流にあたる。しかし、戦国武将としての活躍は知られており、吉見一族中、最も著名な武将といえる。
もとは石見国津和野の僧侶であったが、1540年、兄の吉見隆頼(頼隆)が早世したため、還俗して家督を継ぐこととなった。正頼は清廉な人物で大内義隆から厚く信任を受けて、その姉婿に迎えられるほどであったという。
やがてその大恩ある義隆が家臣の陶晴賢によって討たれてしまう。陶氏と吉見氏とは応仁の乱以来の仇敵であり、更に晴賢は領地を巡ってかねてから正頼と不仲であった益田藤兼の従兄弟であり、晴賢自身も益田氏側に肩入れしていたということもあって、正頼は挙兵する。密かに毛利元就と結んだ正頼は晴賢の討伐軍相手に善戦するものの食料不足もあって降伏を余儀なくされる。だが、既に毛利元就の挙兵によって本国が危機に曝されていた晴賢には正頼を赦免する他なかった。
1557年、大内氏が滅ぶと元就の家臣となった。元就も義隆同様、その正頼の清廉な性格を厚く信頼した。1571年に元就が死去したあとは、後を継いだ嫡孫・毛利輝元の補佐を吉川元春から依頼されている。
1582年、備中高松城への出陣を最後にして、家督を子・吉見広頼に譲って指月城(現在の山口県萩市にある萩城)に隠居し、同地で1588年に死去した。