吉川経幹
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吉川 経幹(きっかわ つねまさ、文政12年9月3日(1829年9月30日) - 慶応3年3月20日(1867年4月24日))は、周防岩国藩の初代藩主。父は吉川経章。母は長井元幹の娘・梅(清操院)。正室は木下利愛の娘・順子。側室は井上円治の娘。官位は従五位下。駿河守。
1829年9月3日生まれ。幼名は亀之進。1844年1月14日に家督を継ぐ。聡明な人物で、1847年には藩校・養老館を創設する。さらに吉川広家以来、疎遠な関係にあった本家の長州藩との融和に努めた。幕末期の動乱の中では、懸命に本家を助け、1864年の第1次長州征伐では仲介役として奔走する。1866年の第2次長州征伐でも、芸州口の戦いで功績を挙げ、幕府軍を撃退した。しかし1867年3月20日に死去する。享年39。
死後、その存在が毛利氏の中では大きかったことから、毛利敬親の命令でその死は隠され、生存しているものとして1868年3月13日に新政府により城主格兼正式な藩主として認められ、その上で1868年12月28日に子の吉川経健に家督を譲って隠居した形となった。そして正式な死は、1869年3月20日に発表されたのである。法号:有挌院春山玄静。墓所:岩国市横山の洞泉寺山墓地。