右田弘詮
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右田 弘詮(みぎた ひろあき、生年不詳 - 大永3年(1523年))は大内氏の重臣。陶弘房の子(母は益田兼堯の娘か?)。長門諏訪山城主。陶(すえ)弘詮・朝倉 弘詮とも称した。
大内政弘・大内義興の二代にわたって仕えた。1482年、兄である陶弘護が28歳の若さで不慮の死を遂げると、その嫡子・興房が成人するまで番代(当主代行・後見人)を務めて周防及び筑前守護代職を務めた。また、主君・義興の上洛中は留守を守って領内の政務を執り行った。初め中務大輔や兵庫頭を名乗っていたが、1518年には従五位下安房守に任じられた。ちなみに興房の妻は弘詮の娘でその間には後に主君・大内義隆を討った陶晴賢が生まれている。
文人としても知られ、宗祇や兼載といった当時一流の文化人と親交があった。その最大の功績と言えるのは鎌倉幕府の正史というべき「吾妻鏡」の校訂である。文亀元年(1501年)頃、同書の一部を手に入れた弘詮は「吾妻鏡」が大変優れた歴史書であるにも関らず散逸してしまっていることを嘆き、各地に依頼して散逸部分の収集・復元を行った。20年後の1522年、ほぼ全巻を収集して一部校訂・年譜の追加を行ってひとまず完成をみた。一部欠失部分はあるものの他本と併せるとほぼ全編が判明する。もし弘詮の事業がなければ「吾妻鏡」の全貌が今日まで伝わる事はなかったであろう。
弘詮の死から28年後、孫の晴賢は主君・大内義隆に対して謀反を起こす。だが、義隆の側近であった弘詮の息子・隆康とその嫡男・隆弘はこれに抵抗して討ち死にしてしまった。難を逃れた隆康の次男・元弘は毛利元就を頼った。この際に弘詮の「吾妻鏡」も毛利氏に献上されて、元就の次男・吉川元春の子孫に伝わる事となった。そのため、弘詮の「吾妻鏡」は今日では“吉川本”と呼ばれている。