台湾文化協会
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台湾文化協会(たいわんぶんかきょうかい)は日本統治時代の台湾で設立された同化会、新民会の流れを汲む民間団体である。
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[編集] 成立
1921年10月17日、台北大稲埕の静修女子学院(現在の静修女中)にて医師や地主、公学校卒業者や海外留学経験者を中心に千名を超す出席者による設立大会が主催された。設立初期の主要人物としては林献堂、王敏川、林呈禄、蔡恵如、李応章、林幼春、蒋渭水、蔡培火、連温卿等がいる。
[編集] 運動
『台湾民報』を協会の宣伝工具とし、台北市、新竹市、台中市、員林鎮、台南市等にに十数社の活動拠点をを設立した。同時に各地で講演会や講習会を行い、『台湾通史』の著者である連雅堂による台湾史と漢文講座、哲学博士の林茂生による西洋史講座や、医師の蒋渭水による公衆衛生講座を初め弁護士や学者による法律講座や経済学講座が行なわれた。統計によれば1925年、1926年の2年間の講座受講者は23万人を数えた。
文化協会は当初文化義塾の設立を目指し貧窮家庭の児童就学支援を目的に団体設立が申請されたが、申請時に却下されている。しかし1924年からは夏休み期間を利用した「夏季学校」の活動を開始し、協会総理の林献堂が自宅を提供し大衆教育に力を注いでいた、また当時文協的に専務理事であった蔡培火は大衆教育における映画の重要性に着目し、1925年には東京より社会教育映画十数本を購入し、社会教育に供している。
[編集] 分裂
1927年1月3日、文協内部の左右両派の対立が表面化した。連温卿により参加した左派青年が文協主流派を占めるようになり、右派が退会するという構図であり、左派は連温卿、王敏川を中心に新文協を、右派は別組織の台湾民衆党を結成した。左派が実権を握った新文協は講演会活動を継続させたほか、左派農民との共同戦線を結成し農民労働者運動に積極的に介入した。また『台湾大衆時報』を創刊し、新劇活動を通じて自己の理想の宣伝に当った。しかし間もなく王敏川が主導する「上大派」(上海大学留学経験者が主体をしめていたためこのように称される)が連温卿派との対立により活動が衰退した。
また台湾共産党が日本共産党の指示により謝雪紅が台湾内に「島内党中央」を設立すると文化協会及び台湾農民組合の大きな影響を与えるようになる。まもなく連温卿派が失脚し1929年除名処分を受けると文協台北支部は廃止され、それ以降は台湾共産党の附属組織と化した。
[編集] 消滅
組織の分裂と多くの会員の逮捕により1930年12月、台湾文化協会は消滅した。