古今亭志ん生 (5代目)
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五代目古今亭志ん生(ここんてい しんしょう、1890年(明治23年)6月28日 - 1973年(昭和48年)9月21日)は、明治~昭和の落語家である。本名、美濃部 孝蔵(みのべ こうぞう)。息子に金原亭馬生(長男)、古今亭志ん朝(次男)がいる。
[編集] 来歴
- 東京・神田亀住町の生まれ。生家は徳川直参旗本であった美濃部家。天狗連を経て当時名人といわれた橘家圓喬に入門(前座名から考えて、事実は三遊亭小圓朝に入門ではないか、つまり名人圓喬の弟子であったというのは、彼の見栄ではないかという説有り)、二つ目になる。後の四代目古今亭志ん生門に移籍後、真打に昇進。1939年に五代目古今亭志ん生を襲名する。
- 戦争末期、物資不足で満足に酒が飲めなくなったとの理由で三遊亭圓生と共に慰問の為、物資豊富と言われていた満州に渡る。理由については、後年自ら語った物である為、実態としては第三者からの依頼による物と思われる。満州にて終戦を迎えたものの、混乱状態の満州から帰国の目処が付かず、国内では「志ん生は満州で死んだらしい」と噂が流れていた。実際本人も今後を悲観して、支援者より「強い酒なので一気に飲んだら死んでしまう」と注意されたウオッカ一箱を飲み干し、数日間意識不明になったことがあった。その後意識を回復し、「死なないのなら少しずつ飲めばよかった」と言ったと落語を地でいく逸話が残っている。昭和22年1月、命からがら帰国。帰国後一気に勢いを増し、寄席はもちろんのこと、ラジオでの出演なども多くこなした。「天衣無縫」ともいわれる形をなさない芸風は唯一無二のものであり、巧拙を超えた面白さは誰にも真似の出来ないものであった。
ある日、志ん生は酔っ払ったまま高座に現れそのまま寝てしまった。客は怒るどころか「いいから寝かしてやろうじゃねえか。」「酔っ払った志ん生なんざ滅多に見られるもんじゃねえ。」と言って、寝たままの志ん生を楽しそうに眺めていた。こんな事が許されるのは志ん生一人であった。6代目圓生は芸の差を、「あの人とは道場の試合では勝てますが、野天の試合じ勝てやせん。」と剣道に例えて脱帽した。また、小噺作りも上手で「蛙の女郎買い」などが有名。
- 1956年芸術祭賞受賞。
- 昭和36(1961)年暮れ、読売巨人軍優勝祝賀会の余興に呼ばれるが、口演中に脳溢血を発す。三ヶ月の昏睡状態ののち復するも、以前の破天荒ともいうべき芸風は影をひそめ、これを境として、志ん生の「病前」「病後」という。病後の志ん生については一般的に云って評価が低いが、その飄々とした味にはかえって磨きがかかっているともいえ、再評価が望まれる。
- 出囃子は『一挺入り』。
- 幾たびの師匠替え・改名もしていることで有名で、長いこと貧乏生活を送ってきたことによる借金逃れと酒による放蕩ぶりがたたったものとも言われているが、名人と呼ばれるようになったのは、50歳を過ぎてからだったこともあり、それも影響しているかもしれない。
- 貧乏暮らし、酒と実生活も落語の世界そのものであり、数限りない逸話を残している。関東大震災のときに、酒が地面にこぼれるといけないと、真っ先に酒屋へかけこみ、酒を買おうとしたという。また、既に東京が空襲にあっている頃、漫談師大辻司郎(初代)に「ビールを飲ましてあげるからいらっしゃい」と招かれて数寄屋橋に出かけ、しこたま呑んだあと、お土産にビールを詰めた大きな土瓶を貰い帰宅中に空襲が始まり「どうせ死ぬならビールを残してはもったいない」と全て飲み干し、酔っ払ってそのまま寝入ってしまった。あくる朝、奇跡的に無傷のまま目覚めて帰宅。家では「志ん生は空襲で死んだらしい」とあきらめられていたと言う・・・・・。
- TBS の専属時代に他局に出演したが、それを指摘されて「何かい、専属ってのは他に出ちゃいけないのかい?」と訊ね、TBS の方も「志ん生だからしょうがない」といって諦めたというエピソードもある。
- 1964年に自伝「びんぼう自慢」を執筆し刊行、5年後に加筆して再刊したが正規の学問を受けていなかったためか自ら字を書くことができずゴーストライターに依頼して書いたという。
- 端唄などを得意とした。小泉信三は、彼の大津絵を聴きたびたび目頭を濡らしたといわれている。
[編集] 改名遍歴
改名は15回している。古今亭志ん馬を二度名乗っているので 14 の名前を名乗ったことになる。
- 1:三遊亭朝太 → 2:同圓菊(二つ目) → 3:古今亭馬太郎 → 4:全亭武生 → 5:吉原朝馬 → 6:隅田川馬石 → 7:金原亭馬きん(真打になる) → 8:古今亭志ん馬 → 9:小金井芦風(講釈師となる) → 10:古今亭馬生(落語家にもどる) → 11:柳家東三郎 → 12:柳家ぎん馬 → 13:柳家甚語楼 → 14:古今亭志ん馬(二回目、前記8と同じ) → 15:金原亭馬生 → 16:古今亭志ん生
「15:金原亭馬生」は長男が、前座名の「朝太」は次男(のち、古今亭志ん朝)が名乗った。
[編集] 得意演目
持ちネタの多いことでは有名(六代目三遊亭圓生と並ぶ)。演目の少なかった八代目桂文楽とは好対照を成す。
お直し、火焔太鼓、黄金餅、唐茄子屋、猫の皿、らくだ、替り目、鈴ふり、居残り佐平次、狸賽、文七元結、首ったけ、三枚起請、錦の袈裟、強情灸、牡丹灯篭、付け馬、風呂敷、他多数