千坂氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原氏北家の流れを汲み、藤原冬嗣の六男の藤原良門の次男の藤原高藤のひ孫の藤原為輔を祖とする勧修寺家の後裔。為輔の次子の藤原説孝の七代後の藤原重房(上杉重房)のひ孫の「犬懸上杉氏」の上杉憲藤の子の上杉朝宗の孫の上杉高春が越後国沼垂郡女堂村の豪族となり千坂高春と名のったことにはじまる。
代々、同族筋の扇谷上杉氏の四家老家の一つであり、上杉謙信が上杉の名跡を継いだ後は、千坂景親(対馬守)が謙信の重臣となる。 景親は越後国蒲原郡を領し、謙信の家臣の中にあっては、謙信を本営にて警固する、いわば親衛隊的な立場にあり、そのため謙信の本営が敵襲により危機に陥らないかぎり、景親には出動の機会はなかった。それが謙信の他の重臣と比して千坂景親の名前が上杉謙信の合戦記になかなか登場しない理由でもある。謙信の没後は、上杉景勝に仕える。
千坂景親は1598年に、会津国大沼郡に5500石を受領。関ヶ原の合戦後には徳川氏との折衝役を務める。1603年、米沢藩の初代江戸家老となる。1606年、71歳で死去。
景親の子の千坂高治の子が、赤穂浪士の吉良上野介邸襲撃の少し前まで、上杉家の江戸家老を務めていた千坂高房(千坂兵部)である。
明治時代の貴族院議員の千坂高雅は、高房の子孫になる。