北条氏照
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北条 氏照(ほうじょう うじてる、天文9年(1540年) - 天正18年7月11日(1590年8月10日))は戦国期の武将。北条氏康の三男で北条氏政の弟。正室は大石定久娘。通称は源三、後に陸奥守を称した。生年を1541年、1542年とする異説もある。
俗に、父もその才を疑問視した兄・氏政と違って聡明で武勇に優れていたと言われる。武蔵国滝山城城主、大石氏と養子縁組をしたが、後に姓を北条に復し大石氏を配下に組み入れる(自ら北条を名乗った確実な記録は疑問視されており、大石当主の立場を全うしたという説もある)。自領であった現・相模原市方面の各村への文書では「油井源三」を名乗っている。その後、氏照は父に従って1561年には三田氏と、1564年には里見氏と、1574年には梁田氏と戦い、後北条氏の勢力拡大に大きく寄与した。また、外交手腕にも秀で上杉氏との越相同盟の実現などを画策した。安土桃山期には織田信長との同盟強化を望んだが、家中の反対意見と信長の横死によって充分に機能しなかった。
永禄11年(1568年)、武田信玄麾下小山田信茂らの軍勢が小仏峠を越え相模国に侵攻した。氏照は中山家範・横地吉信らに迎撃を命じたが、高尾山麗の廿里(現、八王子市廿里町、廿里古戦場)にて敗退。その後余勢を駆って押し寄せた武田勢に攻め立てられ、滝山城は三の丸まで陥落し氏照は二の丸で指揮をとったという。なおこのとき氏照と武田勝頼が槍をあわせたとも伝わる。
氏照は平山城である滝山城の防御面での不利を悟り、武蔵と相模の境に大規模な山城を築いた。山城の山頂に八王子社が祀られた為、城は八王子城と名付けられた。なお八王子城周辺の「八王子」という地名はこれに由来する。
1569年、再度来襲した武田の軍勢が小田原城を囲んだ。撤退する武田勢を氏照・氏邦の軍勢が迎え撃ったが、小田原から追撃してきた本隊の動きが遅く挟撃体制は実現しなかった。この間に武田別働隊が氏照・氏邦の陣よりさらに高所から襲撃し戦局は一転した。戦国最大規模の山岳戦として知られている三増峠の戦いである。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際には徹底抗戦を主張する。居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もっている。そのため小田原開城後、豊臣秀吉から主戦派と見なされて切腹を命じられた。
後の大石氏は、赤穂浪士などで知られている。