前衛美術
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もともとは、第一次世界大戦開始後にヨーロッパにおいて、盛んに使用されるようになった言葉であり、主として、シュルレアリスムと抽象絵画を意味する。すなわち、第一次世界大戦前の動向である、フォーヴィスム、ドイツ表現主義、キュビスム、未来派などは、本来は前衛の範疇には含まれなかった。
しかし、その後、前衛美術の範囲は、戦後にかけて大きく広がり、このような区別は曖昧となり、現在では、一般にフォーヴィスム、キュビスム、未来派なども含めて、前衛美術と呼ばれることが多い。
[編集] 日本における前衛美術
日本においては、第一次世界大戦開始前に、すでに、フォーヴィスム、キュビスム、未来派などの紹介はなされていたようであるが(例えば、フォーヴィスムの影響を大きく受けたフュウザン会の結成は1912年)、これらが一般的となったのは1910年代後半以降、特に第一次世界大戦が終わった1920年代であり(1920年の「未来派美術協会」結成、1920年のダヴィッド・ブリュリュック(ダヴィド・ブルリューク、1882年-1967年, Давид Бурлюк, David Burliuk)、ヴィクトール・パリモフ(1888年-1929年, Bиктор Пальмов, Viktor Palimov, Victor Palimov, Viktor Palmov, Victor Palmov)来日、1926年の「1930年協会」結成など)、しかも、必ずしもヨーロッパで発生した順に従った受容ではなかったため、当初からシュルレアリスムと抽象絵画に限られず、一般にフォーヴィスム、キュビスム、未来派なども前衛美術と呼ばれ現在にいたっている。
[編集] 前衛という言葉の死語化
前衛という概念が生きていたのは第二次世界大戦後しばらくまでと思われる。もともと軍隊用語であった「前衛」という言葉には、何かに対する攻撃というニュアンスがある。それはかつては、フランスの芸術アカデミーを中心とした保守的な「アカデミック」な美術であり、貴族やブルジョワなど社会の保守階層に対する攻撃と同じであった。第一次大戦後の頃は、前の世代の前衛美術や、資本主義体制への攻撃であった。それは次第に「美術」(ファインアート)という西洋に18世紀以降確立した概念に対する攻撃となり、自分自身に対する攻撃になって「美術」がなんとなく拠って立っていたところを片端から崩していった。しかし、こうした反芸術的な運動も、次第に「優れた芸術」として「美術」の元に回収されることとなる。
70年代以降、芸術家や思想家達にとっても、「敵」の見えない時代となった。高度資本主義を敵とし、その広告や商品を逆に流用したシミュレーショニズムや、ジェンダーの存在を敵とするフェミニズムの美術などがあるが、かつてのように確固とした打ち倒すべき社会や美術の権威が見えなくなったことが、美術の潮流が一つだけで語れなくなった原因であろう。かつて「前衛」のある部分を駆り立てていた共産主義思想が退潮したことも一因と思われる。
そういうことからも、現在はそれぞれの美術家がそれぞれ個人的な目的に向かって作品を作っている状態であり、そこに「時代の前衛」という政治的な連帯感はもはやない。また社会に対する緊張を持っている美術家たちも、結局体制や「美術」に回収されてしまったかつての「前衛」に対し苦い思いを持っていることだろう。ゆえに多くの美術家たちは今や「前衛」という古めかしい呼び方をされるのを好まないし、21世紀の現在の「現代美術」を「前衛美術」とよぶこともない。死語と化したと言えるだろう。