八百屋お七
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八百屋お七 (やおやおしち、寛文8年(1668年)? - 天和3年3月29日(1683年4月25日)) は、江戸時代前期江戸本郷の八百屋太郎兵衛の娘。恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こし、浄瑠璃等の題材となった。生年は1666年とする説があり、それが丙午の迷信を広げる事となった。
お七は1682年(天和2年)12月の大火(天和の大火)で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(左兵衛とする説も)と恋仲となった。翌1683年(天和3年)、彼女は恋慕のあまり、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起したが、捕らえられて大森鈴ヶ森で火刑に処せられた。
その時彼女はまだ16歳(当時は数え年が使われており、現代で通常使われている満年齢だと14歳)になったばかりであったため奉行が哀れみ、お七は15歳だろうと聞いた(15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならない)が、彼女は正直に16歳であると主張し、お宮参りの記録を証拠として提出したほどだったという。
お七が火刑に処せられた3年後の1686年(貞享3年)、井原西鶴がこの事件を「好色五人女」の巻四に取り上げて以降有名となり、紀海音の「八百屋お七」、菅専助らの「伊達娘恋緋鹿子」、為永太郎兵衛らの「潤色江戸紫」、鶴屋南北の「敵討櫓太鼓」など浄瑠璃・歌舞伎の題材として採用された。