佐伯和司
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佐伯 和司(さえき かずし、1952年6月5日~)は山口県生まれの元プロ野球選手、投手。1975年の広島東洋カープ初優勝時の主力投手として知られる。右投右打。
[編集] 来歴・人物
山口県玖珂郡美和町生まれ。のちに広島で大手タクシー会社の代表取締役を務めた事業家の父と家族で、小学時に広島市国泰寺町(現中区国泰寺町)に移る。1968年、名門広陵高校に入学(1年時の監督は2005年夏選手権に京都外大西高等学校を準優勝に導いた名将・三原新二郎、また同じ野球部の島田洋七は二学年上、角川博は一学年下)。前年度夏選手権に名投手・宇根洋介を擁して準優勝した広陵は、佐伯入学前の春選抜に再びエース宇根の活躍でベスト8、東尾修(後の西武監督)がエースで四番だった箕島に敗れた(3-7)、夏も準々決勝で敗退(3-6倉敷工業)。宇根が抜けた1年秋から佐伯がエースとなり翌1969年夏選手権出場。1回戦で春夏連覇を狙った三重高校を打ち合いで降したものの八重樫幸雄(後のヤクルト2軍監督、現・打撃コーチ)が四番を打っていた仙台商業に2回戦で敗れた(1-4)。
徐々に球威が増し150キロ近い剛速球と、切れのいいカーブ・シュートを武器に三振の山を築く。投げれば完封、大半が二桁奪三振。「一桁だと気分が悪かった」と豪語するビッグマウス。重い剛球で高校三年間の公式戦で浴びた本塁打はわずか2本だった。相手チームに「バントするのも恐い」と言わせ、箕島の島本講平(1970年南海ドラフト1位)、岐阜短大付の湯口敏彦(同年巨人1位)と共に高校三羽烏と騒がれた。1970年、春選抜では2試合連続完封して準決勝で島本の箕島と当たった。箕島のしつこい攻撃と味方の失策絡みで敗れた(0-3)。箕島は優勝し、かわいいマスクの島本は前年の太田幸司に続いて甲子園のアイドルとなったが、向こっ気が強かった佐伯は、試合後のインタビューで「今日の審判は(ストライク・ボールの判定が)辛い」とプロの投手のような発言をしてしまい、世間の反感を買った。夏は地区大会準決勝・対広島工業戦で18奪三振を記録したが広島商業に決勝で敗れた。
この年秋のドラフト会議では目玉となり、まだメジャーリーグが身近でない時代、サンフランシスコ・ジャイアンツのスカウトも来日したほどだった。同年ドラフト1位で地元広島入団(金城基泰は同期)。地元出身のスター選手として大いに騒がれた。「走るのは大きらい」と公言するなど相変わらずのところを見せたが、よく走り込みルーキー年は4勝、2年目は6勝し3年目の1973年、フォークボールをマスターし大ブレーク、19勝を上げ防御率2.30のリーグ5位、一躍エースにのし上った。しかしこの年の酷使が祟ったか肩を痛め、翌1974年は2勝に留まった。翌1975年、嘘のように肩の痛みが取れ、新しくマスターしたスライダーを武器に、球団創設25年目にして初優勝に驀進するチームの一翼を担い、外木場義郎20勝、池谷公二郎18勝に次ぐ15勝を上げ面目を保った。
1977年日本ハムファイターズへ移籍(この時広島ファンは地元出身のこの人を放出したことに激怒し抗議集会を開いたというエピソードがある。)。1978年には開幕投手を務めるなどそこそこの活躍をした。この年、オールスターゲームのファン投票で、日本ハム選手が組織票により8つのポジションを独占、話題を呼んだ。投手1位は高橋直樹だったが、佐伯も監督推薦で選ばれた。1981年広島に復帰するが勝ち星を挙げることなく1982年引退。打撃投手を1986年まで務めたのち1987年から広島スカウト。その後二軍投手コーチなどを務め、再び広島スカウトを務めた後、現在は退職している。
なお最近では同じ広島の黒田博樹が打たないことで知られるが、佐伯も1973年から1975年にかけて71打席連続無安打のセ・リーグ記録を打ち立てた。1990年、阪神の猪俣隆が更新するまでセ・リーグ記録だった。