交通戦争
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交通戦争(こうつうせんそう)とは、昭和30年代(1955年-1964年)以降交通事故死者数の水準が、日清戦争での日本の戦死者(2年間で1万7,282人)を上回る勢いで増加したことから、この状況は一種の「戦争状態」であるとして、「交通戦争」と呼ばれるようになったもの。1970年にピークに達するがこの後減少。しかし、1980年よりふたたび増加に転じ1988年に1万人を超え、第二次交通戦争ともいわれる状況となった。
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[編集] 経済の発展を支えた車とその犠牲になった子供たち
1945年、太平洋戦争に敗戦した日本の復興のために、まずトラックが普及していった。経済が飛躍的な成長を遂げる中、商用トラックは小型から大型まで増加の一途をたどる。
昭和30年代(1955年-1964年)はトラックなどの商用車が主流だった。
このころより交通戦争という言葉が流行語となるほど車による事故が多発。道路交通の場における弱者である歩行者の死亡事故が増加。歩道や信号機の整備が十分でない中で、死者は歩行者が最も多く、それも多くが子供であり、特に多数の幼児が犠牲者となっていた。華々しい経済発展とモータリゼーションの普及とは裏腹に、ドライバーは仕事に追われ、歩行者は車に対して無防備な時代であった。一般社会の中では車と共存する社会生活様式にはまだなっていなかった。
電通の広告年表では1960年の流行語のひとつとして交通戦争をあげている。
一方、乗用車も、1955年(昭和30年)、トヨタが「クラウン」を発表。「国産乗用車の新しい時代の幕開け」といわれる。その後を追ってトヨタコロナ(1957年)、富士重工業・スバル360(1958年)、日産ブルーバード(1959年)に代表される小型車・軽自動車などの乗用車販売が増加していく。さらに1966年には、日本の本格的なモータリゼーションの起爆剤になった日産サニーとトヨタカローラが発表され、この年はのちにマイカー元年と呼ばれる。ファミリーカーが登場し乗用車も普及の速度を増していく。
高度成長期の商用車、乗用車の増加に交通対策が追いついていなかったことから交通事故死者数は1970年まで増加の一途をたどる。
[編集] 対策
東京都ではオリンピックに向けた大規模な工事が始まり、スピードを上げたトラックが急増したため、都は1959年から緑のおばさんを開始。23区内の小学校近くの交差点で黄色い手旗を振った。
警察は交通事故の危険から身を守るための知識や技能を習得することに重点を置いた交通安全教育をおこなう。また、全国交通安全運動では「歩行者の安全な横断の確保」を運動の重点とした。1960年頃には、「止まって、見て、待って歩く」習性を身に付けるための指導が行われ、1965年前後には、「横断の際手を上げて合図する運動」が推進された。
[編集] 第二次交通戦争ともいわれる時代
1971年以降、減少に転じた交通事故死亡者は1980年よりふたたび増加に転じ1988年に1万人を超え、第二次交通戦争ともいわれる状況となった。
交通事故が再び増加となった背景を、警察白書では、自動車交通の成長に、交通違反取締りを行う交通警察官の増員や交通安全施設等の整備等を推進するための予算を国や地方公共団体が十分に措置できなくなったと解している。
また、交通事故死者では、以前は歩行中の死者であったものが、1975年以降、自動車乗車中の死者が最も多いものとなった。また、1980年から2000年は、若者の運転中の死者が急増した。
[編集] トリビア
- 1970年2月10日発売『老人と子供のポルカ』(左卜全とひまわりキティーズ)の3番まである歌詞のうち、2番の歌詞は交通戦争を題材にしている。
[編集] リファレンス
- 警察庁 平成17年警察白書 第1章 世界一安全な道路交通を目指して
- まぼろしチャンネル なつかしデータでみる昭和のライフ 第8回 ぼくたちの「交通戦争」
- 電通広告年表1960年
- 国民車構想とモータリゼーションの進展 社団法人 日本自動車工業会 JAMAGAZINE 1999年12月号 日本の自動車100年