二葉あき子
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二葉あき子(ふたばあきこ 1915年2月2日 - )は昭和・平成期の歌手。
[編集] 来歴
広島駅のすぐ北側、広島県広島市大須賀町二葉(現在の東区二葉の里)出身で、芸名は二葉の里で安芸の国と地元からとる。本名は加藤芳江。
昭和10年、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)師範科卒業。音楽学校在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で同校期待の増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受ける。その増永丈夫はすでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていた。
レコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコード。卒業後、地元の広島の三次高女(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭をとる。教師時代も上京して学校用教材のレコードを吹込んだ。
昭和十一年、春コロムビアの専属となる。《愛の揺り籃》が最初のレコードだった。昭和十四年、《古き花園》ヒットすると人気歌手としての声価を得る。戦時中は歌手として慰問活動をする。
1945年8月6日、久しぶりに帰郷する為、広島から芸備線の汽車に乗り、トンネルをくぐっているときに原子爆弾が投下され、トンネルを出たら、きのこ雲と落下傘を見たという。
戦後になると、《別れても》《夜のプラットホーム》《恋の曼珠沙華》《さよならルンバ》等のヒット曲を放った。昭和25年の《水色のワルツ》は、綺麗なメロディーに二葉あき子の歌唱が合い、人々に潤いをあたえた。
日劇では同じコロムビアの淡谷のり子、笠置シヅ子、渡辺はま子らとよくステージに立ったという。
昭和30年(1955年)前後に高音が出なくなり、意気を喪失して帰郷。実家から刃物を持ち出し自殺を図るが未遂に終わる。その後、作曲家の服部良一に「高音だけが歌じゃない」と励まされ復帰する。紅白歌合戦には昭和35年まで出場。
1984年に親友の伊藤久男の一周忌に胡美芳、池真理子、並木路子、安藤まり子と「五人会」を結成する。
懐メロ歌手として2001年まで活躍するが、難聴のため引退。翌年に広島に帰郷。淡谷のり子、藤山一郎、霧島昇ら戦前・戦中・戦後を代表する大物歌手が多く鬼籍に入る中、二葉あき子はそうした大物女性歌手の唯一の生き残りと言ってよい。
[編集] 主な作品
- 「乙女十九」
- 「古き花園」
- 「純情の丘」
- 「白蘭の歌」(共唱:伊藤久男)
- 「あの花この花」
- 「なつかしの歌声」(共唱:藤山一郎)
- 「お島千太郎旅唄」(共唱:伊藤久男)
- 「新妻鏡」(共唱:霧島昇)
- 「めんこい子馬」(共唱:高橋祐子)
- 「あの夢この夢」
- 「高原の月」(共唱:霧島昇)
- 「別れても」
- 「青い花瓶」
- 「夜のプラットホーム」
- 「フランチェスカの鐘」(セリフ:高杉妙子)
- *セリフの評判が悪かったので、翌年セリフ抜きで吹き込みなおした。
- 「村の一本橋」
- 「バラのルムバ」
- 「恋のアマリリス」
- 「恋の曼朱沙華」
- 「雨の日ぐれ」
- 「巴里の夜」
- 「さよならルンバ」
- 「水色のワルツ」