予讃線事件
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予讃線事件(よさんせんじけん)とは1949年(昭和24年)に発生した破壊活動による列車転覆事件である。これにより機関助士1名が即死、機関士2名と乗客3名が負傷したが、その後機関士2名も死亡したため、犠牲者は3名になった。なお現場には事件から13回忌の1961年に建立された「殉難之碑」がある。なお事件は同年に発生した松川事件と同様の手口であり、なんらかの意図を持って行われた鉄道テロであるといわれているが、事件の真相は迷宮入りしてしまった。
[編集] 事件の概要
1949年5月9日、香川県高松市の高松桟橋駅を出発し宇和島駅に向かっていた、予讃線準急第一旅客列車が、愛媛県温泉郡難波村(現在は北条市を経て愛媛県松山市北条)にある浅海駅付近にある切通しカーブに差しかかったところ、列車が転覆した。発生時間は午前4時23分ごろであったといい、前述のように殉職者3名が出る惨事になった。
[編集] 迷宮入り
現場検証によると、継ぎ目板3枚、ボルト8本、犬釘7本が故意に抜き取られており、現場に残されていたバール、スパナにはローマ字の刻印があり、明らかに国鉄で使っていたものではないことが判明した。そのため汽車転覆致死傷罪で捜査したが、3ヶ月のちに発生した同じく列車転覆致死傷事件である松川事件と同様に事件の真相が判明せず迷宮入りしてしまった。そのため、推測にすぎないかもしれないが国鉄の労働争議に対するGHQによる押さえ込みのために事件が起こされたとする陰謀説がくすぶっている。