予備予選 (F1)
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予備予選(よびよせん、Pre-Qualify)とは、F1において、主に1988年から1992年までと2004年シーズンに行われた予選形式のこと。
なお1987年以前も、1981年・1982年のモナコグランプリ、1982年のベルギーグランプリなど一部のグランプリでは予備予選が実施されている。モナコグランプリの場合は、コースの狭さやピットの作業スペースなどの関係から1986年以前は決勝出走台数が20台に制限されていたため、通常以上に狭き門となっていた。
[編集] 1992年以前
この当時の予備予選は、F1レースへのエントリー台数があまりにも多くなりすぎ、予選での安全を確保することが難しくなったため、下位ドライバーを対象にある程度のマシンを振るい落とすべく設けられたものである。
通常のF1グランプリの予選セッションにはあらかじめシードされた26台に加えて、予備予選上位4台の計30台(決勝レースにはその中の上位26台が出走)が出走できることとなっていた。この為、年によってエントリー台数が増えるとその競争率が高くなっていた。
1988年にはあらかじめ決められた予備予選該当者の中で、金曜午前中のフリー走行で一番遅かったドライバーを予備予選落ちとするシステムを取っていたが、エントリー数が更に増加した翌1989年以降は、フリー走行前のタイムスケジュールに予備予選が1時間確保されるようになった(通常は金曜日の朝8時 - 9時に行われた)。
なお、予備予選出走を義務付けられるのは、前半8戦と後半8戦では入替を行うこととなっており、前半戦は前年の、後半戦はその年の前半戦の、それぞれコンストラクターズ順位により決められていた。この為、前半で好成績を残したチームが後半戦の予備予選を免除され、逆に前半戦予備予選を免除されながら振るわなかったチームは、後半戦は予備予選から戦う事態に陥ることにもなった。
また、かつては1カーのみのエントリーも認められていたことから、コンストラクターズ順位によっては、2台エントリーのチームのいずれか一方のみに予備予選出走が義務付けられるケースがあった(1992年前半戦のフットワークはミケーレ・アルボレートが予備予選出走し、鈴木亜久里は予選から出走していた)。
1989年には計14台のマシンが参加していた予備予選だが、世界的な不況で参加台数は徐々に減少していった。1992年後半に対象チームが相次いで撤退すると、予備予選は存在意義を失い消滅することとなった。
フリー走行前よりも前に行われた為、特にセッティングのデータがない新規参入チームは厳しい戦いが強いられていた。また、パドックも予備予選で使用されるものには非常に粗末なものしか宛がわれないなど、参加チームにはかなりぞんざいな扱いがなされていた。
ちなみに1989年シーズンには、ザクスピード・ヤマハに乗る鈴木亜久里が「シーズン16戦全て予備予選落ち」という不名誉な記録を残している。 1992年シーズンに片山右京もラルースで一度予備予選落ちを経験している(モナコGP)。
[編集] 2004年
2004年に行われた予備予選は、土曜日に2回行われていた予選セッションのうち最初のセッションのことを指す。
2004年の予選システムでは、まず予選1回目(通常土曜日の午後1時から実施)で前戦のレース結果が下位のものから順番にタイムアタックを行い、それに引き続き(通常土曜日の午後2時から実施)予選1回目で下位のものから順番に予選2回目のタイムアタックを行って、決勝レースのグリッド順位を決定することとなっていた。これにより予選1回目の順位は予選2回目の出走順位を決めるための予備的な意味合いしか持たなくなったために「予備予選」と呼ばれるようになった。
予備予選と予選2回目(本予選)の間の燃料補給は自由に行うことができたため、一般的には予備予選ではほとんど燃料タンクが空に近い状態での走行でタイムを稼ぎ、本予選での出走順位を後に持っていくことが基本セオリーとされていた。