久慈次郎
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久慈次郎(くじ じろう、1898年10月1日 - 1939年8月21日)は野球選手(捕手)である。
岩手県盛岡市出身。盛岡中学を卒業後、早稲田大学に進学し、在学中から持ち前の強肩とリーダーシップを発揮。大学卒業後は北海道の函館太洋倶楽部(オーシャン)に所属、永く函館市に在住した。
1934年にアメリカ選抜チームが来日するために結成された全日本チーム(後に東京巨人軍の核となるチーム)に招聘された久慈は、全日本のエースであった沢村栄治とバッテリーを組み、アメリカ選抜チームを苦戦させた。
しかし彼は職業野球には身を置かず、プレーしながらアマチュア野球の発展に貢献しようとした。
1939年8月19日、選手兼任監督として札幌市円山球場での札幌倶楽部との試合に臨み、5回の守備からファーストに着いていた久慈は、1-2とリードされて迎えた7回、四球で一塁に歩く際、ホームベース上で次の打者に指示を与えようと振り向いた瞬間、走者が飛び出した二塁に向けて投げられた相手捕手の牽制球が右のこめかみを直撃、ホームベース上に倒れ込みそのまま動かず、そのまま市立札幌病院に運ばれたが2日後、頭蓋骨破損による脳出血でついに帰らぬ人となった。 久慈の棺を乗せた列車は札幌から函館に向かったが、停車駅ごとに熱烈な野球ファンが駅に詰めかけて、久慈の死を惜しんだといわれている。
また、久慈の墓は函館市の小高い丘の上に立てられ、その形はボールをかたどったものとなっている。
函館オーシャンスタジアムには久慈がミットを持ち構えている銅像が建てられているが、その銅像は、全日本で一緒にプレーしたヴィクトル・スタルヒンの銅像が建つ旭川スタルヒン球場の方角を向いている。
久慈の死を受け、都市対抗野球では第18回大会(1947年)から、敢闘精神あふれる選手に与える賞「久慈賞」を設けた。
また、1959年に創設された野球殿堂では、正力松太郎や沢村栄治らと並び、第1回の殿堂入り選手となった。