世論
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世論(よろん、せろん、people's opinion)とは、世間一般の意見のことで、公共の問題について、多くの人々が共有している意見(考え)のことを指す。1つの問題を巡って世論が割れ、対立し合うこともある。
中国では漢語として輿論という用語が古くより存在した。一例を挙げれば、唐の李商隠は、その「汝南公の為に赦を賀するの表」の中で、「直言の科(とが)を取れば、則ち輿論を聴く者、算(かぞ)うるに足らず、宥過の則を設くれば、則ち郷議を除く者、未だ儔(ともがら)とすべからず」と述べている。ここでは、輿論は、郷議という言葉と対句として使用されている事がわかる。また、その語義を明代の『類書纂要』は、「輿論とは、輿は衆なり、衆人の議論を謂うなり」と説明している。さらに、輿論と同様の意味で、『晋書』の「王沈伝」では、「輿人之論」という用語が使用されている。「輿人」とは、衆人、つまり多くの人々のことを言うので、輿論と同義語であることが分かる。
現代の日本では、この輿論という表記が、当用漢字による漢字制限によって書き換えられ、与論または世論となり、さらに世の字に引きずられ、「よ」は訓読みであり、漢語に対して湯桶読みはおかしいということから、本来とは異なる「せろん」の読みも一般化した。
市民社会における世論の起源は、17世紀のイギリスに求められる。17世紀の半ば、清教徒革命から王政復古の時期にかけてロンドンなどで社交場としてのコーヒー・ハウスが何軒も開店した。コーヒー・ハウスは、封建的な身分の枠を超えて、自由な言論が交わされる場として、また噂や新聞を通じた情報収集の場として、世論形成に重要な役割を果たした。
フランスではカフェやサロンが、同様に自由な言論の場となった。当時のフランスは絶対王政下にあったが、こうしたカフェやサロンといった空間にまでは、なかなか王権の統制が及ばなかった。当時、王権神授説に立脚した絶対王政を批判したフランスの啓蒙思想家たちは、国家権力の源を神意以外のものに見出そうとしていた。そうした中、社会契約説に基づき、自由かつ平等な市民が主体となり構成する政府、国家という考えを提示するのである。そして、そうした政府、国家を支える論拠となるのが世論であった。
フランス革命の中で台頭したナポレオンは、ローマ教皇の戴冠ではなく国民投票を経て皇帝に就いた。戴冠式にローマ教皇が出席したものの、彼は自ら冠をかぶっている。これは、かつての王権神授説によらない形で政治指導者が決定されたことを象徴しているともいえる。
19世紀以降、各国とも国民国家の形成が至上命題となった。すると、その過程で国民統合を推進するためにも、世論を無視して政治を行うことはもはや困難であった。こうして、政府、国家は世論を恐れるとともに、世論の懐柔を図るようになり、今日へと至っている。
民主主義国家の下では、政治家や企業、各種団体は常に世論の動向に注意を払う必要があり、世論はこれらと社会とを相互に結びつけるものであるとされている。これをノエル・ノイマンは「世論は社会的な皮膚である」と表した。
なお、ある問題について、世論がどのような内容となっているのか、またそもそも世論といえるような共通意見が世間一般に存在するのか、を知るのは相当程度に困難なことであり、単にマスメディアの意見、ないし願望が「世論」として紹介されることもあるし、またアナウンス効果による世論操作として非難されることもある。