下間頼廉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
下間 頼廉(しもづま らいれん、天文6年(1537年) - 寛永3年6月20日(1626年8月11日))は、石山本願寺の坊官。下間頼康の子。通称は刑部卿法眼。子には下間頼亮・宗清・仲玄がいる。
顕如に仕え、織田信長との石山戦争では鈴木重秀(雑賀孫一)と共に本願寺軍の武将として織田軍を苦しめた。このため、「大坂之左右之大将」と呼ばれたという。しかし単なる軍事指揮官だけではなく、1576年に七里頼周が加賀にて無法を行なったときには、それを改めるよう文書を発するなど、政治面においても重きをなしていた。
1580年、本願寺軍が織田軍の前に敗色濃厚となると、正親町天皇の勅命講和により本願寺を退去することとなったが、このとき頼廉も下間頼竜や下間仲孝らと共に講和に署名している。講和後は顕如に従って本願寺を退去し、各地で織田軍に対して抵抗を続ける一向宗徒の説得に当たった。
信長死後、顕如と並ぶ本願寺の中心人物であった頼廉に対して豊臣秀吉や徳川家康らから一向宗徒を軍として貸してほしいという依頼がたびたびあったが、頼廉はこれに対して終始中立を保った。1589年、秀吉から七条猪熊に宅地を与えられ、本願寺町奉行に任じられた。1626年、90歳という長寿をもって死去した。