下田街道
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下田街道(しもだかいどう)は、東海道、三島宿の三島大社を起点に、伊豆の国市韮山・大仁・伊豆市湯ヶ島を通り、天城峠を越えて河津町梨本に至り、更に小鍋峠を越え、下田市箕作・河内を経て下田に至る通計十七里十四町二十一歩の口伊豆(北伊豆)と奥伊豆(南伊豆)とを結ぶ幹線道路であった。江戸時代には下田路と呼ばれた。現在の国道414号(一部区間は国道136号と重複)にあたる。
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[編集] 歴史
天城山が伊豆を南北に分断し、北伊豆から隔てられた南伊豆では物資の輸送は海運に依存していたため、陸上路である三島―下田間の下田街道の整備・発達はかなり遅れたと考えられている。人馬の継立場が史料面から確認できたのは江戸中期の寛保2年(1742年)である。江戸幕府成立後、大半が天領だった伊豆国だが、元禄10年(1697年)を境に旗本領が増加し、のちに沼津藩領、掛川藩領、小田原藩領が各地に置かれたことから、江戸中期頃から通行が増加し、継立場が設置されたと考えられる。 幕末、通行人の数が増大し盛況を呈したが、、沿線の村々には人場継立等の負担が重くのしかかり、明治時代に至っても多大な借入金に苦しんだ。
- 明治13年(1880年) 北伊豆で馬車が走る。
- 明治32年(1899年) 豆相鉄道 三島-大仁間に鉄道敷設。
- 明治38年(1905年) 旧天城トンネルが開通、自動車でも通れるようになり、難所の天城峠越えは一応解消した。
- 大正5年(1916年) 下田自動車 下田-大仁間に米国製乗合バス運行。
- 大正13年(1924年) 駿豆鉄道 大仁-修善寺間開通。
大正から昭和初期に入っても、下田街道は人の往来が主であり、物資輸送は海運が中心であった。
[編集] 継立場の一覧
[編集] 天城を越えた人々
- 寛政5年(1793年):老中松平定信、海防巡視。
- 文化7年(1810年):富秋園海若子、伊豆全体を歩く。「伊豆日記」
- 文政7年(1824年):浦賀奉行小笠原長保、下田巡見。「甲申旅日記」
- 安政1年(1854年):勘定奉行川路聖謨、日露和親条約折衝。「下田日記」
- 安政4年(1857年):米国領事タウンゼント・ハリス、江戸へ日米修好通商条約折衝。「日本滞在記」