下瀬火薬
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下瀬火薬 (しもせかやく) は、海軍技師下瀬雅允が実用化したピクリン酸を主成分とする爆薬の一種である。日露戦争当時の大日本帝国海軍によって採用され、日露戦争における大戦果の一因とされた。
ピクリン酸は1771年にドイツで染料として発明され、その100年後に爆発性が発見された。しかしながら、これは容易に金属と化学結合して変化してしまう為、鋭敏な化合物を維持する点で実用上の困難があった。下瀬雅充は弾体内壁に漆を塗り、さらに内壁とピクリン酸の間にワックスを注入してこれを解決した。
旧日本海軍は1893年にこの火薬を採用し、下瀬火薬と名付け(後に下瀬爆薬と改称)、炸薬として砲弾、魚雷、機雷、爆雷に用いた。これは日清戦争(1894-1895)には間に合わなかったが、日露戦争(1904 - 1905)で大いに活躍した。旧海軍はただでさえ威力の大きな下瀬火薬を多量に砲弾に詰め、また鋭敏な信管(伊集院信管)を用いた事から、敵船体を貫通する能力こそ低かったが、敵兵と艤装に大きな打撃を与えた。明治28年5月27日の日本海海戦(1945年の敗戦まで海軍記念日)でロシアのバルチック艦隊を粉砕した一因は下瀬火薬である。
なお、陸軍では黄色薬と呼ばれていた。