上杉茂憲
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上杉 茂憲(うえすぎ もちのり、1844年4月15日(弘化元年2月28日) - 1919年(大正8年)4月18日)は、出羽米沢藩の第13代(最後)の藩主。父は第12代藩主・上杉斉憲。母は於盤。正室は細川斉護の娘。子に上杉憲章。官位は正二位伯爵。侍従。
1844年2月28日生まれ。斉憲の庶子であったが、生まれてまもなく嗣子として指名された。しかし藩の実権は父が掌握しており、茂憲には活躍の場がほとんど無かった。1868年、戊辰戦争が始まると、父と共に幕府側に与して新政府軍と戦ったが、敗れて降伏した。このとき、父が処罰として藩主の地位を退くことを余儀なくされたため、同年12月18日に家督を継いで藩主となった。1869年、版籍奉還により米沢藩知事となる。旧藩士らに旧藩の囲金や上杉家の備金などから十万両余を分与。1871年の廃藩置県により東京に移住した。その後、イギリスに自費で留学し、帰国後の1881年5月には沖縄県令となる。
沖縄県令への赴任に当たって書記官として補佐したのは旧臣の池田成章(池田成彬の父)で、在任中の施策には池田の具申の影響も大きい。県の現況を把握するため、当時の交通事情の中ほぼ全島を視察し、直に住民から実状を聞きとっている。視察時の記録をまとめた「上杉県令巡回日誌」は、当時の沖縄全県の世情・風俗を知る上での重要な史料である。産業発展には人材育成が要として、1882年に謝花昇、太田朝敷ら5人の第一回県費留学生を東京に留学させた。沖縄県は旧支配層の不満を抑える目的で琉球時代からの旧制温存が政府方針となっており(清国との琉球帰属問題が完全に解決するのは日清戦争後である)、これを打破するため上京し上申書を提出したが、政府方針に反し急進的過ぎるとして二年で県令を解任された。離任時には1500円の私財を奨学資金として県に提供した。
1896年には米沢に移住し、米沢の養蚕製糸織物の改良に尽力した。1919年4月18日に死去。享年76。法号は憲徳院殿権大僧都法印敬心。墓所は東京都港区白金の興禅寺。
- 上杉氏当主(米沢藩13代藩主)
- 1869~1871
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- 先代:
- 上杉斉憲
- 次代:
- (廃藩置県)