ヴェルダンの戦い
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ヴェルダンの戦い | |
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ドイツ軍の死者 |
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戦争: 第一次世界大戦 | |
年月日: 1916年2月21日 - 12月19日 | |
場所: フランスのヴェルダン | |
結果: 膠着 | |
交戦勢力 | |
フランス | ドイツ帝国 |
指揮官 | |
フィリップ・ペタン、Robert Nivelle | Erich von Falkenhayn |
戦力 | |
約30,000(開始時) | 約150,000(開始時) |
損害 | |
計377,000–542,000(内死者不明者 162,308) | 計336,000–434,000(内死者 100,000) |
ヴェルダンの戦いは、第一次世界大戦における主要な戦いの一つである。1916年2月21日に始まり、250,000人以上の死者を出した。
ドイツ帝国は膠着した戦況を挽回すべく、エーリッヒ・フォン・ファルケンハインの発案により、目標をパリへと続く街道にあるヴェルダンに定めた。ここで大量の損害をフランスに与えることにより、フランスが戦争を継続できなくなるよう企図したのである。
ドイツ帝国の軍隊は、ディッケ・ベルタ42cm榴弾砲を用いた激しい砲撃を浴びせながらフランス軍陣地を急襲した。ヴェルダン要塞は都市の周りいくつもの堡塁が取り巻いた構造をしており、ドイツ帝国陸軍は外側の堡塁から攻撃を始めた。ドイツ軍の兵力は三個軍団で、対するフランスの防衛戦力は第三十軍団の第七十二師団と第五十一師団であった。第三十軍団は手痛い打撃を被ったが、ヴェルダンにおける救いは要塞群が完全に包囲されていないことにあった。フランスはバルフォリエ将軍率いる第二十軍団を戦場に投入した。2月も末になると第二軍のフィリップ・ペタン将軍が司令官となった。ドイツ帝国陸軍は塹壕に対しては火炎放射器やホスゲンガスを使用した。ドイツ軍は、じりじりと進撃をつづけ、ドゥオモン保塁やボー堡塁を占領した。しかしながらフランスはこの攻撃に耐え抜き、ソンムの戦いが始まり、ブロシロフ攻勢が始まるとドイツ帝国陸軍はそちらに兵や砲を廻さざるを得なくなってしまい、最終的に、大勢の死傷者を出しながらも、ヴェルダンを占領できなかった。被害はフランス軍の方が大きく、この時代の要塞戦においてはドイツ陸軍はよく戦ったといえ、戦術的には優れていたといえる。しかしながら、戦略的にみて、ドイツのヴェルダンへの攻撃は大失敗であった。
しかし、フランス側の損害も大きかった。その惨状に心を痛めたペタン将軍は、ここで戦う部隊は定期的に交替されるべきだと強く主張し、名声を博した。その人間愛ゆえか、第二次世界大戦ではドイツ占領下のフランス首相となり、衝突を回避させる側にまわっている。ヴェルダンは大量の死者を出したことから、肉挽き機とのあだ名を付けられた。
固定された要塞による防御体制が非常に効果を発揮したので、フランスは大戦の終了後に、国境地帯の防衛手段として、マジノラインに採用した。
フランス軍は、兵士の逃亡だけでなく、ドイツ軍の堅固な陣地に真っ先に進軍することを拒否する者が多いことに悩まされたため、塹壕の中にとどまり、攻めてくる敵を迎え撃つだけにするようにした。
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