ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂 (イタリア) |
|
---|---|
コロッセオ | |
(英名) | Historic Centre of Rome, the Properties of the Holy See in that City Enjoying Extraterritorial Rights and San Paolo Fuori le Mura |
(仏名) | Centre historique de Rome, les biens du Saint-Siege situes dans cette ville beneficiant des droits d'extra-territorialite et Saint-Paul-hors-les-Murs |
登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | 文化遺産(i) (ii) (iii) (iv) (vi) |
登録年 | 1980年 |
拡張年 | 1990年 |
備考 | |
公式サイト | ユネスコ本部(英語) |
地図 | |
ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂 (ろーまれきしちく、きょうこうりょうとさん・ぱおろ・ふおーり・れ・むーらだいせいどう)は、イタリアのローマおよびバチカン市国にあるユネスコの世界遺産の登録物件名。登録は、1980年。1990年には、アウグストゥスの霊廟、ハドリアヌス帝の霊廟などが拡張登録されている。ヴェネツィア広場を中心としたエリアが登録されている。またやはり世界遺産に登録されているバチカン市国 (世界遺産)とも隣接し、こちらと一体となった保全活動が実施されてもいる。
目次 |
[編集] 概要
伝説によると、王の命により双子のロムロスとレムスの兄弟はテヴェレ川に流され、そこで狼に拾われて育てられた。そのロムロスがパラティーノの丘にローマを築いたという。実際には、紀元前7世紀ごろにサビニ人、ラテン人がローマを築いた。その後、現在まで都市として機能しつづけており、都市の中の都市とローマが呼ばれる所以である。
[編集] 建造物
[編集] フォロ・ロマーノ
パラティーノの丘とカンピドーリオの丘の中間に位置する。フォロとは、広場のこと。ローマ帝国の政治、商業と市民の生活の中心だった場所である。フォロ・ロマーノが本格的に整備されるようになったのは、ユリウス・カエサルの時代で、アウグストゥスがこれを引き継ぎ、カエサルを祭ったユリウス神殿、元老院やバシリカ・ユリアが整備された。
[編集] コロッセオ
詳しくはコロッセオを参照
80年にティトゥス帝が建築。当時はフラウイウスの闘技場と呼ばれていた。コロッセオは長径が188m、短径が156mの楕円形。高さは48.5mの4層構造。収容人数は5万人とも6万人以上ともいわれている。ローマ帝国時代、ここでは血をすわせるため白い砂が撒かれその上で剣闘士同士や、剣闘士と猛獣の戦いが見世物として行われた。時には水を張って模擬海戦も行われたという。
現在は、地上部分が露出している。
[編集] コンスタンティヌス帝凱旋門
当時副帝であったコンスタンティヌス帝が、正帝マクセンティウス帝に対し、312年ミルヴィオ橋の戦いで勝利した事を記念して315年に作られた。高さ28m、幅25.7m。見事なレリーフが施されている。
[編集] サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂
詳しくはサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂を参照
コンスタンティヌス帝が、312年に建築した世界で初めての本格的なキリスト教聖堂である。ラテラノ条約によってバチカン市国の領域外にありながらバチカン市国の特別な権利が認められている。ローマ教皇のローマ司教としての司教座聖堂(カテドラル)である。
[編集] サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂
詳しくはサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂を参照
7つの丘の1つエスクィリーノの丘の上に建つ聖堂。教皇リベリウスの夢の中で「夏に雪の降った地に教会を立てよ」と聖母が告げ、実際に真夏に雪がふった場所に聖堂を建てたという伝説から、雪の聖母聖堂とも言われる。鐘楼は、1377年頃にに建築され、ローマで最高の75mをほこる。
[編集] サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂
詳しくはサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂を参照
4世紀、コンスタンティヌス帝により建築された、聖パウロの墓がある聖堂。奥行き131m、幅65m、高さ30m。内部は80本の大理石の柱が4列に並んでいる。フオーリ・レ・ムーラとは、城壁の外という意味で、その名の通り城壁から南へ2kmはなれた場所にある。聖堂の名前を日本語に直すと「城壁外の聖パウロ大聖堂」という名前になる。建築当時は小さな聖堂であったが、その後大規模な改修が行われた。しかし1823年の火災で全壊、1928年に再建された。
[編集] カラカラ浴場
217年にカラカラ帝によって造られた公衆浴場。1600人収容可能だったと推定されている。浴場以外にも図書館などもありローマ市民の娯楽施設であったことが伺える。度重なる破壊と略奪があったが、現在もモザイク模様の床などがのこる。
[編集] 登録基準
この世界遺産は、世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
- (i) 人類の創造的天才の傑作を表現するもの。
- (ii) ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
- (iii) 現存する、または、消滅した文化的伝統、または、文明の、唯一の、または少なくとも稀な証拠となるもの。
- (iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例。
- (vi) 顕著な普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または、芸術的、文学的作品と、直接に、または、明白に関連するもの。
[編集] アクセス
ローマ・フィウミチーノ空港から、ローマ市内まで車で約30分。
[編集] 関連項目
イタリアの世界遺産
World Heritage Sites in Italian Republic |
|
---|---|
文化遺産 | |
ヴァルカモニカの岩絵群 | ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂 | レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院 | フィレンツェ歴史地区 | ヴェネツィアとその潟 | ピサのドゥオモ広場 | サン・ジミニャーノ歴史地区 | マテーラの洞窟住居 | ヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパッラーディオ様式の邸宅群 | シエーナ歴史地区 | ナポリ歴史地区 | クレスピ・ダッダ | フェラーラ:ルネサンス期の市街とポー川デルタ地帯 | デル・モンテ城 | アルベロベッロのトルッリ | ラヴェンナの初期キリスト教建築物群 | ピエンツァ市街の歴史地区 | カゼルタの18世紀の王宮と公園、ヴァンヴィテッリの水道橋とサン・レウチョ邸宅群 | サヴォイア王家の王宮群 | パドヴァの植物園(オルト・ボタニコ) | ポルトヴェーネレ、チンクエ・テッレと小島群 | モデナの大聖堂、トッレ・チヴィカとグランデ広場 | ポンペイ、エルコラーノおよびトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域 | アマルフィ海岸 | アグリジェントの遺跡地域| ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ | スー・ヌラージ・ディ・バルーミニ | アクイレイアの遺跡地域と司教座聖堂バシリカ | ウルビーノ歴史地区 | パエストゥムとヴェリアの古代遺跡群を含むチレントとディアノ渓谷国立公園とパドゥーラのカルトジオ修道院 | ヴィッラ・アドリアーナ (ティヴォリ) | ヴェローナ市街 | アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群 | ティボリのデステ家別荘 | ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々 | ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティ | オルチャ渓谷 | チェルヴェーテリとタルクイーニアの古墳群 | シラクーザとパンターリカの断崖の墳墓群 | ジェノヴァ:ラ・ストラダ・ヌオーヴァとパラッツィ・ディ・ロッリの設備群 | |
自然遺産 | |
エオリア諸島 | |
世界遺産 | ヨーロッパの世界遺産 | イタリアの世界遺産 | 五十音順 | | |