ロンドン橋
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ロンドン橋 (ロンドンばし、London Bridge)はロンドンを流れるテムズ川にかかる橋。タワーブリッジとキャノンストリート鉄道橋の間に位置する。市内のシティとサザクを結び、プール・オブ・ロンドンの西端に位置する。この橋の架かる位置には古くから、何度も橋が架けられては倒壊しており、その回数の多さは「ロンドン橋落ちた」(en:London Bridge is Falling Down)の俗謡からもうかがえる。1750年にウェストミンスター・ブリッジが架けられるまでロンドン市内でテムズ川に架かる橋としては唯一のものであった。 橋の南側にはサザク大聖堂とロンドン橋駅が、北側にはロンドン大火記念碑とバンク・アンド・モニュメント駅がある。 現在の橋はロンドンとポーツマスとを結ぶ道路A3の一部であり、グレーター・ロンドン・オーソリティにより維持管理されている。
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[編集] 歴史
現在のロンドン橋が架かる位置にはその近辺も含め、2000年近くにもわたって橋が存在してきた。ロンドン地域でテムズ川に架かった最古の橋はローマ人によるもので、西暦46年に架けられた木製のものであった。この位置は架橋にもっとも適した位置として、また水深もあり海へのアクセスにも適した場所としても選択されたようだ。ローマ人が去った後は荒廃したものの、部分的に補修や部材の交換がなされたようである。1013年、侵略してきたスヴェン1世率いるデーン人たちを分裂させるためにエゼルレッド2世によって焼き落とされた。この事件が、よく知られる「ロンドン橋落ちた」が生まれた背景かもしれない。もっとも現在私たちがよく知るものは、多くの橋が落ちては架け直されたり、その費用をめぐって「金と銀」で取引がなされる14世紀のものである。この歌の原形は後の時代ものと推測される。架け直された橋は1091年に嵐で破壊され、1136年には火災に遭っている。
[編集] 中世のロンドン橋
1136年の破壊の後、橋の管理者であったPeter de Colechurchが木製の橋を石像の永久橋に置き換える提案をした。 そのため新しく税が課され1176年ヘンリー2世 の時代にde Colechurchの監督の下、工事が始まった。この橋は完成までに33年を要しde Colechurchの死後4年経った1209年、ジョン王の時代に完成した。
ジョンは橋上に住宅を建てる考えを持っており、橋は完成後まもなく住宅、商店、さらには礼拝堂によって占められた。中世の橋は19の小さなアーチと南端に守衛所を備えた跳ね橋を持っていた。アーチの狭さはテムズ川の堰のような役割を果たし、80%の流量を抑制し冬季の凍結を起こしやすくしたと推測される。流れはさらに橋の南北に設けられた水車によっても阻害された。これによりstarlingsと呼ばれた橋の南北の橋脚間に2mという水位の差と、すさまじい急流を作り出した。 小舟を漕いでstarlingsの間を通り抜けようとしておぼれた者が多くおり、「賢いものは橋上を渡り、愚か者はその下を通る"for wise men to pass over, and for fools to pass under"」という諺が遺されている。
1381年のワット・タイラーの乱、1450年のジャック・ケイド(ジョン・モーティマー)による反乱の際に、橋での攻防戦でいくつかのアーチは崩れ、橋上の住宅も焼き払われている。
北側の門、ニュー・ストーン・ゲートは1577年にナンサッチハウスに置き換えられた。南側の水門小屋、ストーン・ゲートウェイはロンドンで最も悪名高い場所のひとつとなった。タール漬けになった謀反人の生首を矛にさしてさらしたのである。 ウィリアム・ウォリスの首が1305年、初めて門に架けられ335年に及ぶ伝統が始まった。他に首がさらされた有名な人物としてジャック・ケイド(1450年)やトマス・モア(1535年)、ジョン・フィッシャー(1535年)そしてクロムウェル(1540年)などがいる。あるドイツ人旅行者が1598年に30以上もの首が橋にさらされたことを数えている。 この慣行は最終的に1660年、チャールズ2世による王政復古の際に廃止された。 橋上の建築物は大火の危険とアーチへの負荷を増大させた。複数の大災害が橋上で起きたことは驚くには当たらない。 1212年あるいは1213年、ロンドン大火以前で最も大きいと考えられる火災が橋の両端から同時に発生し、橋上の人々を襲い3000人が亡くなったとされる。1633年にも別の大火が起こり橋の北側3割を破壊したが、このことが1666年のロンドン大火での橋の損傷を防ぐこととなった。1722年までに交通混雑が非常に激しくなり市長が「サザクからシティへ向かうすべての馬車類はこの橋の西側を通行し、シティから出て行く交通は東側を通行するように」との布告を出した。これがおそらくブリテン島での左側通行の起源であろう。1758年から62年にかけて水上交通改善のため中心の2つのアーチがより広い梁間のものに交換され、それとともに家々も除去された。
[編集] 近代のロンドン橋
18世紀の終わりには交通量に対し狭隘になり、600年以上使用され老朽化したロンドン橋が交換を必要としていることは明らかだった。In 1799年、新しい橋の設計コンペが開催され、en:Thomas Telfordが180mの長さの単式鋼鉄アーチを持つ橋を応募した。革新的な彼のデザインは入賞したが、実現可能性の不確実さと、建設に要する土地の膨大さのため使用されることはなかった。橋は結局5連の優美な石造アーチによるものとなった。ジョン・レニーの設計によるものである。新たな橋は旧橋より30m西(上流)に7年の歳月と2,000,000ポンドを費やし、Rennieの息子によって1831年に完工した。旧橋は新橋開通まで使用され、その後廃棄された。Rennieの橋は大理石で造られ、長さは283m、幅は15 m、公式の開通日は1831年8月1日である。その日、式典がウィリアム4世とQueen Adelaide出席のもと、橋のたもとの会場で行われ、HMSビーグル号がこの橋の下を最初に通った。1902年から4年にかけて慢性的な渋滞に対処するため16mから20mに拡幅された。しかし、これが橋の基礎に過大な負荷を与えることとなってしまった。工事後に橋が8年に1インチの割合で沈むようになったのである。1924年には橋の東側が西側よりも3cmか4cm低くなってしまった。この橋が新しいものと交換される必要があることは明白となった。 1968年4月18日レニーの橋はアメリカの企業家ロバト・P・マカロックに2,460,000ドルで売却された。彼自身は否定しているが、マカロックはタワーブリッジと勘違いしていたとも言われている。 売却された橋は、アリゾナ州のハヴァス湖に復元され1971年10月10日に開通式が行われた。現在この橋は、グランド・キャニオンに続くアリゾナ州第2の観光名所となっている。
[編集] 現代のロンドン橋
現在のロンドン橋は建築家のジョン・モウレムによって1967年から1972年にかけて造られた。開通は1973年3月17日、エリザベス2世によってなされた。 それは、3つの加圧コンクリート梁からなる全長283mの大建築である。400万ポンドの費用はブリッジ・ハウス・エステイツが用意し、その一部は古い橋の売却収入があてられた。 現在の橋はレニーの橋を部品ごとに解体しながら、同じ位置に造られていった。