ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)
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ロタール3世(Lothar III,1075年6月 - 1137年12月3日)はドイツ王(在位:1125年 - 1137年)、神聖ローマ皇帝(在位:1133年 - 1137年)。国王選挙によって選ばれたズップリンブルク家の王、皇帝。ズップリンブルク家の王位は一代限り。ザクセン公。
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[編集] 生涯
[編集] 国王選挙、ロタールの即位
シュパイアー(シュパイエル)において、前王ハインリヒ5世の埋葬式が行われた。その後まもなく、マインツで次王の選挙が行われた。候補者は、シュタウフェン家のシュヴァーベン公フリードリヒ、オーストリアのレオポルド、ザクセン公のロタール・フォン・ズップリンブルクであった。前王ハインリヒ5世はフリードリヒの王位を願ったのだが、この選挙で選ばれたのはロタールであり、彼がドイツ王ロタール3世となった。(この選挙結果をめぐっては、当時のマインツ大司教による陰謀説など様々あるが、結局のところ詳細は不明である。)
この結果は、当然ながらシュタウフェン家の不満を招くものであった。ロタールとシュタウフェン家は、1127年より軍事衝突へと突入し、1135年までにロタールが有利な形で講和を行った。
ロタールは、1100年にカトレンブルク伯ディートリヒの娘、リヒェンツァ・フォン・ノルトハイムと結婚した。彼女の母親ゲルトルート・フォン・ブラウンシュヴァイクは、その出身家門であるブルノン家のブラウンシュヴァイクの所領を相続しており、ロタールは妻を介してこの重要な所領を手に入れた。しかし、この結婚から嗣子を得ることはなかった。そのため、当時のバイエルン公ハインリヒ10世に娘ゲルトルートを嫁がせて事実上の後継者とした。これには、シュタウフェン家の影響力が強いドイツ南部に勢力を伸張しようとする狙いもあった。
[編集] ローマ教会の内紛
ローマ教会でも、その主導権をめぐる権力闘争が激化していた。1130年、前教皇の死去に伴い、インノケンティウス2世とアナクレトゥス2世の二人がローマ教皇を称した。いわゆる「教会大分裂(シスマ)」と呼ばれる状況である。こうした中、インノケンティウスはロタールに接近し、これに対抗したアナクレトゥスは、シチリアのルッジェーロ2世に接近することとなった。1130年にアナクレトゥスはルッジェーロの王位を認めたが、これをもってシチリア王国の成立とみなされる。
1133年、インノケンティウス2世から、ロタール3世は皇帝の冠を受けた。その際、ドイツ国内の教会について皇帝が一定の影響力を行使できることを確認させている。こうしたローマ教皇の妥協は、ロタールを用いて、対立教皇のアナクレートゥスと両シチリア王国の打倒を目論んだことが大きい。
[編集] 南イタリア遠征
かくして、ロタールはイタリア南部への軍事遠征を敢行する。当時強勢を誇ったシチリア王国を警戒し、ビザンツ帝国やヴェネツィア共和国もこれを支持した。しかし、シチリア王国の打倒にまでは至らず、何よりもロタール本人が、遠征の帰路の1137年にチロル地方のブライテンヴァンクで死去してしまった。
ロタールは、その後継者にバイエルン公ハインリヒを望んでいた。しかしながら、再び波乱の国王選挙が起ころうとしていた。