ルクセンブルク家
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ルクセンブルク家(ルクセンブルクけ、独:Luxemburg、仏:Luxembourg)は現在のルクセンブルク市を発祥としたヨーロッパの貴族、王家。963年にアルデンヌ伯ジークフリートがこの地にあったルクセンブルク城を本拠地に定め、その子孫が11世紀にルクセンブルク伯の位を神聖ローマ皇帝から与えられた。神聖ローマ帝国の域内とはいえ、フランスにも近かったため、ルクセンブルク伯はフランス王の封建家臣にもなっていた。1081年には、ルクセンブルク伯家出身のザルム伯へルマンが、皇帝ハインリヒ4世の対立王に選出されている。
大空位時代の後、皇帝権力の強化を望まないドイツ諸侯は、当時は弱小な伯爵家に過ぎなかったハプスブルク家やナッサウ家から皇帝を選出した。1308年、帝国諸侯でありながらフランス王の封臣でもあったルクセンブルク伯ハインリヒ7世が擁立されたのも、同じ事情からだった。しかしハインリヒ7世は優れた人物で、1309年にはスイスの一部を領有し、翌年には息子ヨハンとボヘミア王ヴァーツラフ3世の妹エリシュカ(アルジュビェタ)との縁組により同国の王位を獲得するなど、自家の領土を短期間のうちに拡大させた。また、弟バルドゥインはハインリヒの皇帝選出に先立つ1307年に選帝侯の1人であるトリーア大司教となっており、兄ハインリヒやその孫カールの皇帝選出に貢献している。こうして、ルクセンブルク家はドイツにおける最有力の勢力となった。
ボヘミア王となったヨハンは皇帝には選出されなかったが、ヨハンの息子カール(カール4世)は1346年に皇帝に選出され、ボヘミア王とルクセンブルク伯も継承した。カール4世は金印勅書を発布して帝国の混乱を収拾する一方、自家の勢力拡大と帝位の世襲化にも努めた。なお、ルクセンブルク伯位はカール4世から弟ヴェンツェル1世に譲られた後、1354年にルクセンブルク公へと格上げされ、カールの息子ヴェンツェル(2世)に継承された。
カール4世の後は2人の息子ヴェンツェル、ジギスムントが皇帝、ボヘミア王、ルクセンブルク公、さらにブランデンブルク選帝侯を継承する。しかしいずれも凡庸な人物で、代々の無理な拡大政策もたたってドイツやボヘミアの諸侯の離反を招き、さらに一族内でも対立を起こして権力を失っていく。ジギスムントはハンガリー王位を獲得する一方、ブランデンブルク選帝侯位をホーエンツォレルン家に譲っている。ヴェンツェル、ジギスムントとも男子がなく、ヨープストら傍系にも男子の後継者がいなかったためにルクセンブルク家は断絶し、同家の有していた所領や位の多くは、やがてジギスムントの娘婿であるアルブレヒト2世らを経てハプスブルク家が獲得することとなった。ルクセンブルク公領も例外でなく、一族のエリーザベトからブルゴーニュ公へ渡った後、ブルゴーニュ家の断絶と共にハプスブルク家が継承した。
[編集] ルクセンブルク家の人物
括弧内は生没年。
- ハインリヒ7世 (1275年 - 1313年) 神聖ローマ皇帝、ルクセンブルク伯
- バルドゥイン(ボードゥアン) (1285年 - 1354年) トリーア大司教
- ヨハン (1296年 - 1346年) ボヘミア王、ルクセンブルク伯
- カール4世 (1316年 - 1378年) モラヴィア辺境伯、のち神聖ローマ皇帝、ボヘミア王、ルクセンブルク伯
- ヴェンツェル1世 (1337年 - 1383年) ルクセンブルク公、ブラバンド公
- ヨハン・ハインリヒ (1322年 - 1375年) モラヴィア辺境伯
- ヴェンツェル(2世) (1361年 - 1419年) 神聖ローマ皇帝、ボヘミア王、ブランデンブルク選帝侯、ルクセンブルク公
- ジギスムント (1368年 - 1437年) 神聖ローマ皇帝、ボヘミア王、ハンガリー王、ブランデンブルク選帝侯、ルクセンブルク公
- ヨープスト (1351年 - 1411年) モラヴィア辺境伯、ブランデンブルク選帝侯、ルクセンブルク公、ドイツ王(対立王)
- ヨハン (1370年 - 1396年) ゲルリッツ公
- エリーザベト (1390年 - 1451年) ルクセンブルク女公