ルイス・I・カーン
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ルイス・イサドア・カーン(Louis Isadore Kahn, 1901年2月20日 - 1974年3月17日)は、アメリカ合衆国の著名な建築家で、都市計画立案者、大学教授。彼の活動の主眼は、公共建築である。彼は野獣主義(Brutalismus)の代表者の1人でもある。
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[編集] 生涯
1901年 ロシア帝国(当時)のエストニア地方のザーレマー島に、ユダヤ人の父レオポルド、同じく母ベルサの間の2男1女の長男として生まれる。
1904年 父レオポルトが単身でアメリカに移住。
1906年 家族とともに渡米後、フィラデルフィアに定住した。
1924年 ペンシルバニア大学美術学部建築学科卒業。その後彼はヨーロッパに旅に出て、その際、彼はフランスのカルカッソンヌを訪れる。
1925年-26年 彼はフィラデルフィア万国博の主席デザイナーに就任。その後は、当時よく知られた建築家たちと共に仕事をし、再度ヨーロッパに出かける。
1935年 自らの建築事務所を開き、居住建築プロジェクトを立ち上げる。
1947年-57年 イエール大学で教鞭をとる。イエール大学アートギャラリーを手がけ、フィラデルフィアの都市計画・交通スタディにも携わる。
1957年-74年 フィラデルフィアのペンシルバニア大学に移る。ペンシルベニア大学リチャーズ医学研究棟で注目を集め、事実上のデビューを果たす。
1974年 インドのアーメダバードからの帰途、ニューヨークのペンシルバニア駅の男性用トイレで心臓発作のため亡くなった。享年73歳。
[編集] 業績
ルイス・カーンは、しばしば最後の巨匠と呼ばれる。 それは、構造と意匠が高度な必然性の高みで融合し、その精神性を専門家だけでなく、広く一般にまで感受させることのできた建築を作り続けた最後の例だからである。
カーンは最初、ローコストの公共住宅などを手がけ、イエール大学アートギャラリーで初めてチャンスを得る。 四角錐のグリッド・パターンによるスペース・フレーム(スラブ)で、ブルータルな表情を見せたが、外観は素材と工法においてきわめてオーソドックスなモダニズム様式である。 カーンは、建築素材の扱い方において慎重であり、素材はその本性に沿ってのみ扱われるべきだと信じていた。
ペンシルベニア大学リチャーズ医学研究棟で、いわゆる彼の言うところの「サーブド・スペース」(サポートされる機能空間)と「サーバント・スペース」(サポートする機能空間)が試され、階段室、排気、給気ダクトが納められた4本のシャフトが鋭く起立するデザイン的完成度で建築界の注目を集めるも、設備的完成度の未熟さもあって、使い心地は悪かった。 その経験も踏まえ、満を持して取り組んだのが、カリフォルニア州ラ・ホヤのソーク生物学研究所である。 これは、ポリオ・ワクチンの開発で有名な細菌学者のジョナス・ソーク博士がリチャーズ医学研究棟を見て感銘を受け、「芸術家のピカソを招いてもいいような研究所を」という彼の肝いりで始まったものである。 リチャーズでは縦に割れていた「サーブド・スペース」「サーバント・スペース」の関係性が、ここでは設備的には上下2層に分かれ、さらには共同作業を行う実験室と明確に分けられる形で、居住性に配慮した個人研究用の個室を、中庭に面して左右対称に、45度の角度で重なり合いながら横に張り出させている。 そしてその外観を、明るい砂色のコンクリートに良くマッチした窓枠のチーク材の生成りの色合いとのツートーンで際立たせつつ、印象的なファサードを形作ることに成功した。
実は、この傑出した中庭は、そのデザイン処理に最後まで悩んだカーンが、建築家であり友人でもあったのもう一人のルイス、すなわちメキシコのバラガンのアドバイスを頼んだことによるものである。 伝えられるところによると、相談を受け現地に立ったバラガンは即座に「ここには何も置くべきではない。ただのプラザになるべきだ。そうすればここは空へのファサードになるだろう」と言い、カーンもまたすぐにそのデザイン意図を理解したという。 カリフォルニアの明るい太陽の下、中庭の真ん中に穿たれた浅く細い水路の先に、広大な太平洋を望むランドスケープは、カーン建築のなかの嚆矢である。
以後、バングラデシュとインドで国家的プロジェクトに携わるも、カーンの作品の中での白眉といえば、テキサス州フォートワースに建つキンベル美術館であろう。 カマボコ形のコンクリート・ボールトの屋根を戴いた細長いユニットがおよそ3×6の配置で並べられた建物は、実業家で熱心な美術収集家であったケイ・キンベル夫妻の私的コレクションの為に計画された。 ボールト屋根の頂部にうがたれたトップライトからの自然光は、アルミ製のパンチングメタルの反射板で受けとめられ、銀色の間接光で満たされて光輝くコンクリート打ち放しの天井面を作り出す。 その柔らかな光は、地上ではここでしか見ることのできない性質のものである。
いわゆるコンクリート打ち放しを、建築デザインとして用いたのはフランスのオーギュスト・ペレが最初であるが、それをモダニズムの美学として発展させる取り組みは、日本が世界で最も早く、アントニン・レーモンドを経て、後に日本のお家芸と言われるまでになる。 カーンのコンクリート打ち放しによる柱梁表現も、丹下健三の初期3部作(広島ピースセンター・旧東京都庁・香川県庁舎)に影響を受けたのではないかとする向きもあるが、その細部に至るまで緻密な表現は、エンジニアのオーギュスト・コマンダントの協力もあって、カーン独自の美学的完成度をみせている。
しかしながら、モダニズムの禁欲的な原則にのっとって、構造と素材が厳しく幾何学的形体として操作され、そのディテールの精度とプロポーションの確かさにも関わらず、出来上がった時からもうすでにどこか廃墟の風情をたたえるカーンの建築は、しばしばアナクロニズム(時代錯誤)とも評される。 荘厳にして冷ややかな、神亡き機械時代の神殿を築いたかのようでもある。
カーンはまた、哲学的な建築論でも知られ、その言葉はしばしば深淵で神学的な響きを帯びた。 その教えをペンシルバニア大学でじかに受けた建築家の中に香山壽夫がいる。
[編集] 作品
- イエール大学アートギャラリー (1951-1953)
- ユダヤ・コミュニティーセンター (1954-1959)
- マーガレット・エシェリック邸 (1959-1961)
- リチャーズ医学生物学研究場 (1959-1965)
- ソーク研究所 (1959-1965)
- ノーマン・フィッシャー邸 (1960-1967)
- ブリンモア大学エルドマン・ホール (1960-1965)
- バングラディッシュ首都大学、議事堂 (1962-1974)
- インド経営大学 (1962-1974)
- フィリップ・エクスター・アカデミー図書館 (1965-1972)
- キンベル美術館 (1966-1972)
- イエール大学英国美術研究センター (1969-1974)
- スティーヴン・コーマン邸 (1971-1973)
[編集] 栄誉
- 1965年 デンマーク建築家協会からメダル。
- 1971年 アメリカ建築研究所(AIA)から金メダル。
- 1972年 イギリスの王立建築研究所(RIBA)から金メダル。
[編集] 関連
- レンゾ・ピアノ - 事務所に在籍。
- ロバート・ヴェンチューリ - 事務所に在籍。
- マリオ・ボッタ - 助手を務める。
- イサム・ノグチ - リヴァーサイド・ドライブ公園の計画で恊働。(実現せず)
[編集] 外部リンク
- Friends Of The Trenton Bath House
- The Trenton Bath House of Louis Kahn
- A Site About Louis Kahn's Bath House
- Great Buildings on-line, with links
- Factsheet
- Honoring Kahn at his centennial, with photographs
- Drawings for the Kimbell Art Museum, Beaux-Arts training as applied to Modernism
- My Architect, biographical movie (IMDb, 2003)
- The Louis Kahn Archive, University of Pennsylvania
- Space is the place - ルイス・カーンの手がけた施設についての写真サイト。
- Yale University Art Gallery - Louis I. Kahn building - イエール大学美術館からの施設建設に当たってのルイス・カーンのオリジナルな意図についての情報。
カテゴリ: アメリカ合衆国の建築家 | 1901年生 | 1974年没