リチャード (コーンウォール伯)
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コーンウォール伯リチャード・プランタジネット(Richard Plantagenet, 1st Earl of Cornwall, 1209年1月5日 - 1272年4月2日)は、イングランド王ジョン(欠地王)の次男。兄にヘンリー3世がいる。一時、神聖ローマ皇帝に擬えられた事がある。
兄ヘンリー3世にコーンウォール伯に叙せられる(公爵ではなく伯爵である)。コーンウォールの地は錫の産地であったことから、リチャードは相当な金を有していたらしく金持ちであり、またフランス王ルイ9世(聖王)や神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世ともその金銭から交友関係を持った。
1233年、兄ヘンリー3世の王位を狙って、兄王の統治に不満を抱く貴族と連合して反乱を起こしたが失敗する。このとき、兄から反乱の罪を許され、兄の王妃エリノア・オブ・プロヴァンスの妹サンシーと結婚することで和解した。
1254年、フリードリヒ2世の子コンラート4世が死去して神聖ローマ帝国が皇帝不在の大空位時代に入ると、1257年のドイツ選帝侯による皇帝選挙で、カスティリャ王国のアルフォンソ10世(賢王)と共に次の皇帝候補として推挙されるに至った。このとき、リチャードは所領のコンラートが金を有することから、莫大な金を使ってドイツ諸侯に自分を支持してくれるように交渉している。そしてドイツ選帝侯も、アルフォンソ10世(彼は母がフリードリヒ1世の孫娘だったことから、リチャード以上に血縁関係では次の候補として有力だったが、スペインの国内事情などから皇帝になることは不可能な立場にあった)よりもリチャードが皇帝としてふさわしいと考え、リチャードは皇帝として正式に推挙されかけるようになった。
ところが1263年、イギリス国内で兄・ヘンリー3世とシモン・ド・モンフォールら反国王派による内乱(バロン戦争)発生する。リチャードは兄とシモンの仲介役を務めて一度は両者を和解させたが、1264年に再び両者が決裂して戦い始めると、リチャードは兄に従ってシモンと戦う。しかし、1265年のルイスの戦いで兄と共にシモンの率いる軍勢に敗れた上、捕虜として兄と共に捕らえられるという醜態を晒したため、ドイツ選帝侯から見放されてしまい、彼の神聖ローマ皇帝としての即位は幻に終わってしまったのである。
晩年には息子も暗殺され、不遇と失意の内に1272年、64歳で死去した。