ユリウス2世 (ローマ教皇)
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ユリウス2世(Julius II 1443年-1513年2月21日)はローマ教皇(在位,1503年 - 1513年)。本名はジュリアーノ・デラローヴェレ。芸術を愛好し、多くの芸術家を支援したことでローマにルネサンス芸術の最盛期をもたらしたが、その治世において教皇領とイタリアから外国の影響を排除しようとした奮闘が、戦争好きの政治屋教皇というレッテルを彼にもたらすことになった。
[編集] 生涯
アルビッソラの貧しい家で育ったデラローヴェレは教皇シクストゥス4世の甥にあたる。その叔父の意向を受けてローヴェレはフランシスコ会の修道院に学び、自然科学の勉強のためにラペルーズの修道院に送られることになった。しかし、彼はそれを拒否し、フランシスコ会修道院に入った。しかし、フランシスコ会に籍をおきながら、1471年に叔父によってフランスのカルペントラスの司教にあげられるまで特例として教区にも在籍していた。1471年、28歳にして枢機卿にあげられ、叔父が教皇になるまで持っていたサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ(聖ペトロをつないだ鎖があることで有名な大聖堂)の枢機卿位を引き継いだ。叔父のもとで影響力を増していったローヴェレはアヴィニョンの大司教位など八つもの司教職をかけもちしていた。1480年には教皇使節としてフランスに派遣され、四年間同地に滞在した。華々しい経歴の中で、教皇がインノケンティウス8世に変わっても枢機卿団における彼の影響力の大きさは増していくばかりであった。
当時の枢機卿団の中で影響力を持っていたもう一人の人物ロドリゴ・ボルジアとは当然互いをライヴァル視するようになっていった。しかし1492年のコンクラーヴェでは、アスカニオ・スフォルツァの抱きこみに成功し、巨額の賄賂によって枢機卿たちの票を買いまくったボルジアが圧勝し、教皇アレクサンデル6世を名乗ることになった。敗れたローヴェレは身の危険を感じてオスティアに逃れ、さらにパリへと逃れた。パリでは国王シャルル8世の身辺にあってナポリ王国への継承権を主張するようそそのかしていた。ついに王を動かすことに成功したローヴェレはフランス軍と共にイタリアへ侵入、アレクサンデル6世の抵抗空しくローマ入城に成功した。ここで汚職の噂に事欠かなかったアレクサンデル6世を断罪し、退位させることができると思ったが、そこはアレクサンデル6世のほうが一枚上手であった。アレクサンデル6世はシャルル8世の腹心ブリソネーに枢機卿を与える約束をしてその地位を保障されたのだった。
その後、いったんアレクサンデル6世と和解したが打倒ボルジアの野望を捨てず1503年アレクサンデル6世が没すると、ローヴェレはミラノのピッコロミニ枢機卿を支持して、教皇選出に大きな役割を果たした。これがピウス3世である。しかし、ピウス3世は病にたおれて急逝。ローヴェレがかつての仇敵ボルジアの庶子で教会軍総司令官であったチェーザレ・ボルジャの支持を取り付けるという政治的な離れ業をおこなって教皇位につき、ユリウス2世を名乗った。
その在位の初めからユリウス2世は教皇庁をめぐる複雑な権力関係や大国の影響力を一掃したいと考えていた。そのためにまず取り組んだのは教皇領をほぼ我が物としていたボルジャ家の影響力を拭い去ることであった。複雑な折衝の末にこれに成功すると、ボルジャ家のもとで追い込まれていたかつての名族オルシーニ家とコロンナ家の関係正常化の仲介をおこない、教皇庁とローマの貴族たちとの関係も改善した。
ローマの安全性を確実なものとするため、教皇はファエンツァやリミニなど諸都市からヴェネツィア軍を追い出した。彼らはアレクサンデル6世逝去のどさくさにまぎれてそれらの都市を占領していた。1504年には対立することの多かった神聖ローマ帝国とフランスの同盟に尽力し、その力を借りることでヴェネツィアの影響力を弱めようとした。これはイタリアの独立性を弱める危険があるが、当面の策としては最上のものであった。しかし、この同盟も結局実際的な影響力はあまりなく、ロマーニャのいくつかの街からヴェネツィア軍が撤退したにとどまったが、ついに1506年に教皇自らが軍隊を率いて出たことでペルージャやボローニャを陥落させ、フランスと神聖ローマ帝国が教皇を無視できなくなるほどの影響力を持つことに成功した。
1508年にはフランス王ルイ12世およびアラゴンのフェルナンド王と組んで対ヴェネツィア共和国同盟を結成。1509年初頭にはヴェネツィアへの禁輸令などによって締め付けを強化し、アニャデッロの戦いでヴェネツィアを破ったことで共和国のイタリア半島における影響力を一挙に消滅させることに成功した。しかし、ここにきて教皇はイタリアにおけるフランスの影響力の大きさを危惧するようになった。そこでヴェネツィア共和国と同盟し、フランスと敵対した。フランスとイギリスを離間させようとした教皇の策は失敗し、逆に1510年にフランスがトゥールで教会会議を招集するという反撃にうって出た。フランスの司教団は教皇への忠誠を放棄し、ルイ12世は教皇の廃位を企てた。この目的のためピサ教会会議が準備され、1511年に実際に開会した。
教皇はヴェネツィア共和国、アラゴンのフェルナンド2世と対フランス同盟である神聖同盟を締結。ヘンリー8世と神聖ローマ帝国皇帝も同盟に加えることに成功した。ユリウス2世はピサでの教会会議に対抗して、1512年にローマに公会議(第5ラテラン公会議)を召集した。公会議の召集はユリウス2世が教皇着任にあたって実施を約束したものであったが、なかなか実行されずにいたものであった。こうして足元を固めた教皇はついにフランス軍をアルプス北部へ追いやることに成功した。しかし、これもフランス以外の大国がイタリアに影響力を及ぼすという結果につながるものでしかなかった。ローマ周辺の教皇領の政治的安定と独立を獲得した教皇であったがイタリア半島全体の独立の夢はかなわず、1513年2月に病没した。教皇の遺体は司教座聖堂であったサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリに葬られた。(同教会にある有名なミケランジェロのモーセ像はユリウス2世の墓所のためにつくられたものである。)
ユリウス2世の事績と展望は教会関係者のそれというよりは政治家・軍事的指導者のものであった。これはアレクサンデル6世の方針を基本的に受け継いだもので、異なっているのは自らの栄誉や一族の繁栄よりも教会の権威と影響力を強力にすることに専心したことである。もっともマキアベッリは「自らの手でするか息子にゆだねるかの違いでしかなかった」と言っている。また前任者の汚職を告発しているが、ユリウス2世もまた自身が関わった少なくとも二度のコンクラーベで票の買収工作を行ったり、即位後すぐに三人の甥や従弟を枢機卿に任命するなどしている。ただしこれらの行為は現在では宗教的堕落ではなく、教皇の君主的側面を象徴するものと解釈されている。
それでも彼は不屈の精神、優れた政治的手腕、道徳的中立性などによって同時代の政治家と比べても傑出した存在であることは間違いない。同時に戦争好きであるとか政治屋であるという印象を残してはいるが、現代でも人気のある教皇の一人に数えられる。
彼について忘れてはならないのは芸術の愛好者であり、多くの芸術家の援助をしていたということである。ドナト・ブラマンテ、ラファエロ・サンティ、ミケランジェロ・ブオナローティなどがユリウス2世の援助を受けて優れた創作活動をおこなった。特にミケランジェロにはシスティーナ礼拝堂の天井画の製作を依頼している。また、ローマの補修・美化にもつとめ、サン・ピエトロ大聖堂の新築を決定し、1506年に定礎式を執り行ったのもユリウス2世であった。