ピウス3世 (ローマ教皇)
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ピウス3世(Pius III, 1439年5月9日 - 1503年10月18日)は在位期間が極めて短いルネサンス期のローマ教皇(在位,1503年)。本名はフランチェスコ・トデスキーニ・ピッコロミーニ。在位わずか26日で死去。
[編集] 生涯
フランチェスコはシエナ生まれ。伯父がピウス2世となったため、ネポティズム(親族登用主義)の恩恵を受けて22歳でシエナの司教および枢機卿に任命された。ネポティズムで登用されたとはいえ、彼は優秀な人材であったため、歴代の教皇たちに引き続き取り立てられ、パウルス2世時代のラティスボンの帝国議会への参加、あるいはシクストゥス4世時代のウンブリアにおける教会制度の改革などの業績を残した。
やりたい放題であった教皇アレクサンデル6世の没後、教皇庁が混乱のきわみに陥る中で、無欲無私で知られたロベーレ枢機卿(後のユリウス2世)の後押しもあってフランチェスコが教皇に選出され、ピウス3世を名乗った。教皇位につくと、まず腐敗のすすんだ教皇庁の改革に取り組み、実力者であったチェーザレ・ボルジャを逮捕させている。が、在位26日目の1503年10月18日に急逝。足にできた潰瘍のためとも、シエナ総督パンドルフォ・ペトルッチが盛った毒物のためとも言われる。
短い在位期間と急死にまつわる陰謀の噂ということに関しては20世紀の教皇ヨハネ・パウロ1世とも共通点がある。