ムツィオ・クレメンティ
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ムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi, 1752年1月23日 - 1832年3月10日)は、イタリアのローマに生れ、イギリスのエヴァシャム (Evesham) で没した作曲家・ピアニスト・教師・編集者・出版業者・楽器製造業者。
[編集] 略歴
- 1752年 銀細工師の父ニコロと母マクダレーナとの間に、7人兄弟姉妹の長男として生まれた。早くから音楽に興味を示す。
- 1758年(6歳) 両親により、専門家の下でソルフェージュを学ぶ。
- 1759年(7歳) オルガニストの下で通奏低音を学ぶ。
- 1761年(9歳) 優秀な成績でオルガニストの試験に合格した。
- 1766年(14歳) 地区教会サン・ロレンツォの常任オルガニストの地位を得る。
- 1766年暮から1767年初頃 ロンドン市長をしたベッグフォオード (Peter Beckford) の甥に引き取られイギリスの田舎ドーセット (Dorset) に渡るが、彼は特別な教師の指導を受ける機会を与えられず、やむなく楽器の練習や勉強に自分で計画を立てて、厳しく自分にその実行を課していたようである。
- 1775年頃(23歳) 保護者から離れてロンドンに出てチェンバロ奏者をしていた。
- 1779年(27歳) 王立劇場で指揮者。春に出版したop.2のソナタは大変大きな反響を呼んだ。
- 1780年(28歳) 春、パリへ旅行。宮廷にてマリー・アントワネットの御前で演奏。
- 1781年(29歳) 12月24日ウィーンにて神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世に招かれる。ロシアのパウル大公(後のロシア皇帝パーヴェル1世)らをもてなす席で、当時25歳のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと競演する。(モーツァルトはクレメンティを酷評している)
- 1782年(30歳) 以後20年殆どロンドンに留まり、ピアニスト・教師・作曲家として名を挙げ、またピアノ製作と出版にも携わる。
- 1785年(33歳) 2月、母がローマで死亡。
- 1798年(46歳) この頃から1830年頃までピアノ製作会社を仲間と共同で設立運営。
- 1802年(50歳)から1810年にかけての8年間は弟子を連れてのヨーロッパ遍歴をしている。ペテルブルクでは成功。各地で教えを受けたいと願う者達に指導をした。しかし、本来の目的はピアノの販路拡張であった。
- 1804年(52歳) 前年ベルリンで出会ったカロリーネ・レーマン嬢(18歳)と結婚。
- 1805年(53歳) 8月8日息子カールが誕生、しかし9日後に妻カロリーネ死亡。
- 1810年(58歳) この年以後はロンドンに定住。弟子からは多くの有名なピアニストを送り出しており、クレメンティは全欧で名声を高めていた。
- 1811年(59歳) 26歳のエマ・ギスボーン (Emma Gisborne) と2度目の結婚をする。
- 1813年(61歳) ロンドンに在住する音楽家30名がフィルハーモニー協会を設立。1816年までクレメンティは常任指揮者。
- 1814年(62歳) スウェーデン王立音楽アカデミーの会員に選出される。
- 1817年(65歳) ピアノ練習曲《グラドゥス・アド・パルナッスム》の第1巻を、以後1819年には第2巻、1826年に第3巻を出版し、今日に残る作品となった。
- 1832年3月10日(80歳) 死亡。ウェストミンスター大聖堂の修道院に埋葬された。
[編集] 作品
- ベートーヴェンは、ピアノ曲に関してはモーツァルトの作品よりもクレメンティの方がピアニスティックで素晴らしいと評価している。しかし、よく知られた作品は、初級の練習用教材であるソナチネアルバムの中にある作品36の1から6番までの6曲である。ピエトロ・スパダによるピアノソナタ全曲録音は1990年代にようやく行われ、10人のピアニストに分担させた《グラドゥス・アド・パルナッスム》全曲録音が入手できるようになったのは21世紀に入ってからだった。近年は再評価される機会が増え、作品全集の新版が刊行中である。