マンハッタン計画
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マンハッタン計画(マンハッタンけいかく)とは、第二次世界大戦中、枢軸国の原爆開発に焦ったアメリカが原子爆弾開発・製造のために、亡命ユダヤ人を中心として科学者、技術者を総動員した国家計画である。計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施した。さらに、広島に同年8月6日・長崎に8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなった。
科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマー博士。大規模な計画には効率的な運営をするために、管理工学が使用された。
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[編集] 概要
[編集] 進言
ナチス・ドイツが先に核兵器保有する事を恐れた亡命ハンガリー系ユダヤ人物理学者レオ・シラード(コロンビア大学研究員)が、同じ亡命ユダヤ人の著名なアインシュタインらの署名を借りてルーズベルト大統領に開発を進言信書を送ったのが始まりである。 この「進言」では核エネルギーが軍事目的のために使用される可能性があることが述べられ、核によって被害を受ける可能性も示唆された。
署名により、アインシュタインが原爆開発を開始させたと記述する文献もあるが、間違いである。アインシュタインは核エネルギーの兵器応用には関心を持たず、計画自体には関わっていないし、実際に核兵器開発計画がスタートした事実も知らされていなかった。
[編集] 着手
当初はルーズベルトは関心を示さずに検討委員会を設ける程度であったが、1941年にイギリスからユダヤ系科学者オット・フリッシュとルドルフ・パイエルスの記した核エネルギーの兵器応用のアイディアを伝えられ、核兵器実現の可能性が高まると、1942年6月、ルーズベルトは国家プロジェクトとしての研究着手を決意する。プロジェクトの実施にあたっては、「陸軍マンハッタン工兵管区」と名称が付けられた組織が行うこととなった。 責任者はレズリー・リチャード・グローヴス准将が1942年9月に着任した。[1]
[編集] 計画
計画に参加する科学者達のリーダーに選ばれたのは物理学者のロバート・オッペンハイマーである。オッペンハイマーの提案で研究所はニューメキシコ州ロス・アラモス(後のロスアラモス国立研究所)に置かれることが1942年11月に決定した。彼を研究所長にノーベル物理学賞受賞者(後の受賞者も含む)のアーネスト・ローレンス、エンリコ・フェルミ、レオ・シラード、リチャード・P・ファインマン、ジョン・フォン・ノイマン(爆縮レンズの計算担当)などの科学者のほか、ハーバード大学やカリフォルニア大学など名門校の学生などを集められ、この計画に対しては多額の資金(当時の価格で19億ドル)が投入された。
米国以外ではカナダのモントリオール大学が計画に参加している。
[編集] 開発
マンハッタン計画の開発は、秘密主義で行われた。情報の隔離が徹底された。 別のセクションの研究内容を全く伝えず、個々の科学者に与える情報は個別の担当分野のみに限定させ、全体を知るのは上層部のみというグローヴスの方針には、自由な研究を尊ぶ科学者からの反発も強かった。
[編集] 原爆投下
1945年3月ドイツが敗北しナチスの脅威がなくなるとジェイムス・フランクやシラードらは、フランクレポートなど、対日戦での無思慮な原爆使用に反対する活動を行った。
しかし、アメリカは世界で初めての原子爆弾を開発し、7月16日にトリニティ実験を行い爆発に成功した。 開発された原子爆弾は、8月6日に日本の広島に投下され、さらに8月9日に長崎に投下された。
[編集] 開発状況を描いた書籍・映画作品
書籍
- リチャード・ローズ (神沼二真, 渋谷泰一訳) 『原子爆弾の誕生』(上/下) 1993, 啓学出版; 1995, 紀伊國屋書店, ISBN 4314007109 (上巻), ISBN 4314007117 (下巻);
Richard Rhodes, The Making of the Atomic Bomb, 1987, Simon & Schuster.
— ピューリッツァー賞受賞のノンフィクション。
映画
- シャドー・メーカーズ (Fat Man and Little Boy, 米, 1989)
— ポール・ニューマン出演の創作を交えた劇場公開用映画。ベルリン国際映画祭ノミネート。 - デイ・ワン (Day One, 米, 1989)
— 史実に忠実に作られたテレビ映画。エミー賞 (ドラマ部門最優秀作品賞) 受賞。ソフト未発売。
[編集] 脚注
- ↑ 計画の名はオフィスがニューヨーク・マンハッタンに置かれていた説、マンハッタンにあるコロンビア大学が原子核物理学研究で重要な役割を果たした説があるが、はっきりとはしていない。どちらにしても、秘匿名称であり名称そのものにあまり意味はない。
- 2. 1939年、レオ・シラードとエンリコ・フェルミは、コロンビア大学で米国初のウラニウムを使用した核分裂実験に成功した。実験が行われたPupin Hall(物理学部の校舎)は、合衆国歴史的建造物に指定されている。
[編集] 関連項目
- 核兵器
- 日本の原子爆弾開発
- ドイツの原子爆弾開発(German nuclear energy project)