マラズギルトの戦い
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マラズギルトの戦い(トルコ語:Malazgirt Savaşı)とは1071年8月26日に、アナトリアの東部マラズギルト(「マンジケルトManzikert」とも)で、東ローマ帝国とセルジューク朝との間で戦われた戦闘。セルジューク朝が勝利をおさめ、東ローマ皇帝ロマノス4世ディオゲネスは捕虜となった。
[編集] 概要
1038年にテュルク族のトゥグリル・ベクがアッバース朝の首都バグダードに入城し、カリフからスルタンの称号を受け、セルジューク朝が開基されると、その勢力は西方にのびていった。 2代スルタンアルプ・アルスラーンの頃にはグルジア、シリアに進出。さらにアルメニアに食指を動かした。
これが、東ローマ帝国との対立を生ずることになり、この戦いにいたった。ロマノスはセルジューク側を上回る軍勢を率いて討伐に向かったため、アルプ・アルスラーンは和議を申し入れたが、数を頼みとするロマノスはトルコ人問題に片をつけるべく和議を蹴って決戦に臨んだ。しかし、ロマノスの率いていた当時の東ローマ軍は傭兵の寄せ集めで士気が低く、またドゥーカス王朝の一族アンドロニコス・ドゥーカスが裏切って兵を引き上げたために東ローマ軍は大混乱に陥り、敗北してしまったと言われている(注)。
注)余談だが、東ローマ帝国の歴史記述の中では講和を望む相手に対して、数を頼みに攻勢に出て致命的な敗北を喫する、というパターンが何度も見られる(ニケフォロス1世の対ブルガリア遠征、マヌエル1世コムネノスとルーム・セルジューク朝のミュリオケファロンの戦い、など)。
[編集] 結果
東ローマ帝国のアナトリアでの影響力が低下し、アナトリアでのトルコ化が進むきっかけとなり、後々のオスマン帝国の勃興、東ローマ帝国の滅亡へと繋がる遠因ともなった。また、セルジューク朝の脅威にさらされることになった東ローマ帝国は、西欧に救援を要請し、これが十字軍となった。