マキノ光雄
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マキノ光雄 まきの・みつお (1909年(明治42年)11月15日~1957年(昭和32年)12月9日)は、日本の映画プロデューサー。本名・多田光次郎。日本映画の父である牧野省三の第六子(次男)。
[編集] 来歴・人物
京都府西陣に生まれる。多田姓は母方の姓である。子供の頃から父の映画に子役として出演して映画業界の息吹の中で成長する。1921年(大正10年)に同志社中学に入学するとラグビーに熱中する傍らキリスト教に入信。一方で、放蕩を尽くし中学卒業前日に退学させられる。1927年(昭和2年)に勉強の名目で東京へ出るが都内の映画館にかかるマキノ映画の歩合金を横取りして飲み遊ぶ。厳格だが愛情深い省三はこれを怒らずに京都に戻った光雄を御室撮影所に毎日連れていった。
1928年(昭和3年)の本宅の焼失、スターの大量退社に揺れるマキノで逆境に燃えた光雄の兄、弱冠20歳のマキノ雅弘は山上伊太郎と時代劇の傑作「浪人街」を生むが翌年の1929年(昭和4年)、省三が亡くなるとマキノプロの経営は困難になり1930年(昭和5年)に年末給料不払で争議が起こる。この後、光雄は雅弘の反対を押して支援者を募ろうと上京し散財する。結果、失敗するが雅弘はこれを叱らずに「光雄はいい勉強をした」としている。 正映マキノで巻き返そうとした雅弘は1932年(昭和7年)御室撮影所の焼失で全てを失いマキノ党を率いて日活に入社。光雄は現代劇の制作に携わり1934年(昭和9年)に多摩川撮影所に移るが翌年、根岸寛一が所長となると企画部長として活躍。1938年(昭和13年)に元宝塚の星玲子と結婚したがこの年、森田佐吉が多摩川で根岸を排斥すると、根岸は職を辞し満州映画協会の理事として大陸に渡る。
光雄も6月に満州にわたるが言葉の通じない自然条件も風習も違う異国で苦労を重ねる。1943年(昭和18年)、東京支社詰めから、松竹へ移り京都撮影所に拠るが1946年(昭和21年)に根岸の誘いにより東急資本の東横映画(東映の前身)に参加するために松竹を退社する。
1951年(昭和26年)4月1日に大川博社長のもと東映が発足すると本社制作部長、ついで東京撮影所長に就任。1952年(昭和27年)常務製作本部長として製作の前線に立ち「ひめゆりの搭」(1953年)「笛吹童子」(1954年)とヒットを飛ばし中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵などを売り出す一方で、満州で苦労をした内田吐夢に「血槍富士」(1955年)を撮らせている。
やる気をなくし麻雀ばかりしていた若き日の深作欣二らを怒ることもなく、みんなで集まりエロ話をして笑わせていたという。
1957年(昭和32年)、10月に病む。12月9日没。48歳の若さだった。
[編集] 備考
東映時代に制作会議で起用しようとした映画監督(一説に今井正とされる)が思想的に「左翼であるから」と嫌う周囲を笑って「右も左もあるかい。わいは『大日本映画党』じゃ。」とうそぶいたという。