ボヤイ・ヤーノシュ
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ボヤイ・ヤーノシュ(Bolyai János, 1802年12月15日 - 1860年1月27日)はハンガリー領トランシルヴァニア(現ルーマニア領)の数学者。非ハンガリー式に姓名を倒置してヤーノシュ・ボヤイあるいはヤノーシュ・ボヤイと表記されることが多い。
[編集] 業績
父ボヤイ・ファルカシュの影響を受けて平行線理論に興味を抱き、1835年、「ユークリッド第11公準を証明または反駁することの不可能の証明」において非ユークリッド幾何学の可能性を切り開き双曲幾何学を提唱した。幼いころから数学に異常な才能を示し、13・4歳のころには父親の代わりに講義を行い、好評を博したという。オーストリアの工兵学校に進み、数学をさらに究めた。父の知らぬ間に平行線の問題に取り組み、いくつかの結果を出し始めた。父親に知らせたところ、父がしたのと同じ失敗をしたこともあった。ボヤイの父はあの数学の王ガウスの同窓生であり、父親自身も平行線問題を研究していたが、自分の自信作をガウスに見せて間違いを指摘され、それ以後この問題から遠ざかってしまった。子供のヤノシュがこの問題に取り組んでいるのを知って父はやめさせようとしたのであるがそれでひるむ子供ではなかった。1826年ころには現在双曲幾何学とよばれる非ユークリッド幾何学のひとつを不十分ながら建設することができた。父親は研究が正しい方向に進んでいることをヤノシュから聞かされて「・・・結果が出たならすぐにでも発表しなさい。ほかにも同じことを考えている人はいるのだから一刻でも早い方がよい。・・・」と早く発表することをうながした。最終的にこの論文は父親の『試論』という書物の中の付録として収録され、発表された。父はその抜き刷りをガウスに送って批評を請うた。ガウスからの返事は親子を落胆させるに余りあるものだった。「・・・論文を発表した息子さんの勇気を誉めたい。しかし息子さんを誉めることは私自身を誉めることになるでしょう。なぜならこの論文に書かれていることを私は20年以上前に得ていたのです。騒ぐ人がいるので発表しなかったのですが・・・」この返事を知らされるやヤノシュはガウスが自分のアイディアを盗んだと思ったが、そうでないと知ると以後、数学の研究をやめてしまい、悲惨な残りの半生を送ることになる。また、この平行線問題はロシアのロバチェフスキも長年研究していた。その完成度はヤノシュよりもずっと高く、ほぼ全てを構築していた。ヤノシュの論文は記号や、論述が独特で、読みにくく、一般に広がるには難しい側面を持っていた。ボヤイ父子についてはStackelの"Wolfgang und Johann Bolyai"に詳しい。一般的な書としてはLiwanovaの『新しい幾何学の発見』(のちに『ロバチェフスキの世界』と改題)(東京図書刊行)に詳しい。