プロチェス協会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
プロチェス協会(- きょうかい、Professional Chess Association、PCA)は、当時のFIDE会長フロレンシオ・カンポマネスがプレイヤーの投票権を廃した結果、ガルリ・カスパロフとナイジェル・ショートが、チェスの世界チャンピオンシップのマーケティングと組織化のために1993年に創設した組織。1995年にPCA世界チャンピオンのタイトル戦を開催したが、1996年にメインスポンサーインテルを失い、ほどなく解消された。
FIDEの規則では、世界チャンピオンシップ決勝に関する提案はFIDE、世界チャンピオン、挑戦者の3者により決定されることとなっていた。しかし、カンポマネスはこれらの規則を破って、開催地をマンチェスターと宣言した。世界チャンピオンであったカスパロフと挑戦者となったショートは、FIDEが不正とプロフェッショナリズムを欠くことについて不満があり、2人はプロチェス協会を設立しその下で世界チャンピオン戦を行うことにした。当然のように、FIDEはカスパロフから世界チャンピオンの称号を剥奪し、ショートのカスパロフへの挑戦権を否定した。
1993年10月、カスパロフとショートの対決は、ロンドンのサヴォイ・シアターで開催された。カスパロフが12.5対7.5で快勝し、PCA世界チャンピオンとなった。一方、カスパロフとショートを追放したため、FIDEはカスパロフの前にFIDE世界チャンピオンであったアナトリー・カルポフと挑戦者決定戦でショートに負けたヤン・ティマンを対戦させ、カルポフが勝利した。ここにチェスの世界で初めて、2人の世界チャンピオンが並立することとなった。
1993年から1995年まで、PCAはFIDEの世界チャンピオン予選システムのスタイルに則って、インターゾーン大会と挑戦者決定戦を開催した。インドのクランドマスター、ビスワナサン・アナンドが勝利し、挑戦権を獲得した。
1995年に、カスパロフは9月11日に世界貿易センターで開始されたアナンドとの試合に10.5対7.5で勝利し、PCA世界チャンピオンのタイトルを防衛した。
PCAは1996年にメインスポンサー、インテルを失い、ほどなく解消された。カスパロフは挑戦相手を決める適当な予選システムを組織できなくなった。2000年に彼はついに勝手に選んだ挑戦者ウラジミル・クラムニクと試合を行っ(て敗退し)た。