フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー
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フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー(François Pierre Guillaume Guizot、1787年10月4日-1874年9月12日)は、フランスの政治家・歴史家(首相在任:ルイ・フィリップの七月王政期の1847年-1848年)。
フランス南部のニーム出身。父はフランスでも有力な弁護士であったが、1794年、ギゾーが8歳のときにフランス革命に巻き込まれて死刑に処せられた。このため、ギゾーは連座で処刑されることを恐れてジュネーブに避難する。1805年、フランスがナポレオンの時代に入るとパリに帰国して歴史書の執筆活動に入った。ギゾーが記した著書には、『フランス文明史』や『イギリス共和国とクロムウェルの歴史』、そして『ヨーロッパ文明史』など優れた歴史書が多い。1812年にはパリ大学の近世史の教授となる。ナポレオン失脚後、ブルボン朝が復活してルイ18世のもとで絶対王政が復活すると、ギゾーは自由主義を唱えてこれに強行に反対したため、かえってルイ18世、そしてその後を継いだシャルル10世らの怒りを買うこととなり、大学での講義を停止させられてしまった。しかしそれでも、ギゾーは政治的に優れた人物であったため、内務省や法務省への出仕を許されている。
1830年、7月革命が起こってブルボン朝が滅亡すると、アドルフ・ティエールらと協力してオルレアン朝のルイ・フィリップを擁して七月王政を行なった。ルイ・フィリップのもとでははじめ内相、次いで1832年から1840年までは文相を務め、フランス国民に対しての教育の普及を行なった。1842年からは駐イギリス大使、そして外相などを歴任し、ここにいたって事実上、七月王政の実質的な主導者として君臨することとなったのである。ギゾーは外交面においてはイギリス・オーストリアなどと友好的な政策を採ったため、フランスの国際的地位を上昇させた。しかし内政においては一部の有力資本家を支持して国民の社会的・政治的自由を抑圧し、普通選挙権においても制限を加えるなどの圧制を敷いたため、国民からの不満を招いてしまう。1847年に首相となったが、同年に国民の間から選挙権を求めるデモが発生した。これに対してギゾーは、「選挙権が欲しければ金持ちになればいいのだ。すぐにデモを解散しろ」と放言したという。このギゾーの失言、さらにはウィーン体制打破の動きがフランスにも及んできたことなどが要因になって、1848年にフランス2月革命が発生する。革命が起こったことに怒った国王ルイ・フィリップは、その原因がギゾーの無能さにあるとして、首相を罷免させてしまった。その後、ギゾーはベルギー、そしてイギリスに亡命している。
1849年、フランスに帰国した後は政界には関わらず、歴史家として余生を送った。1874年、88歳で死去。
政治家としてよりは、歴史家としての評価のほうが高い。特に文明史においては、独自の概念に基づいた分析を行なって、歴史学を確立している。
前任: アントワーヌ=ルイ=クロード・デステュット・ド・トラシー |
アカデミー・フランセーズ 席次40 |
後任: ジャン=バティスト・デュマ |