フェルナンド7世 (スペイン王)
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フェルナンド7世 (Ferdinand VII、1784年10月14日 - 1833年9月29日)はスペイン国王(在位1813年 - 1833年)である。
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[編集] 前半生
カルロス4世(スペイン王)と妻マリーア・ルイーサ・デ・パルマの長男で、マドリード近くのエル・エスコリアルの広大な宮殿で生まれた。
フェルナンドが関係した事件は、悲劇的で、ヨーロッパで最大の関心事であった。青年時代は両親と両親のお気に入りマヌエル・デ・ゴドイ(母の愛人)から除け者にされた恨みを隠せない辛い立場の王位継承者の立場に追いやられていた。弱体化した政府に対する全国の不満から1805年に革命が起きた。1807年10月、フェルナンドはリベラルな改革派がナポレオン皇帝の助けを得ようとしたエスコリアル陰謀事件の共犯として逮捕された。陰謀が発覚すると、仲間を裏切り、両親の指示に従った。
父が1808年3月にアランフエスの民衆の暴動で退位を余儀なくされると、即位するがナポレオン皇帝が自分を助けてくれると期待して再びナポレオンに靡いた。フェルナンドは退位を強要されることになり、7年近くフランスのヴァランサイのヴァランサイ宮殿に囚われた。
1814年3月、連合軍はフェルナンドをマドリードに連れ戻した。解放を非難するスペイン人は、初めてフェルナンドを歓迎することでナポレオンによる占領と半島戦争に対してフランスびいき(afrancesados)であることを明らかにした。フェルナンドはじきにスペインが自分の名において独立戦争を戦い自分の名においてフンタがラテンアメリカを統治してきたとはいえ新しい世界が外国の侵略と国内の革命で誕生したことを知った。スペインはもはや開放的な憲法の下で絶対君主制を続けることはできなかった。王に返り咲いたフェルナンドは、現行の憲法に基づいて統治を行うとした開放政策を保証したが、教会の後押しを受けた保守派に煽られて、数週間で(5月4日)憲法を拒否し、解放派の指導者を逮捕し(5月10日)、自分の不在中に同意なしにコルテスが制定した憲法を拒絶したことを正当化した。従って王権は王個人にのみ帰属するとしたボルボーン(ブルボン)朝の政策に回帰したことになる。
一方南米独立戦争は続いていたが、共和派の多くは派閥抗争を行い、王党派が多くの地域で優勢であった。シモーン・ボリーバル軍の場合、永続的に勝利を収められるようになるのは、1817年になってからであった。スペイン帝国領のマニラガレオン船と税収は途絶え、スペイン財政は破綻するしかなかった。
フェルナンドが回帰した独裁政治は、少数の取り巻きにより行われた。フェルナンドは数ヶ月ごとに気紛れに容赦なく次々と閣僚を交代させた。他の5ヶ国連合の独裁者は、フェルナンドをスペインの正当な代表として支援させたが、ウンザリしながら警戒の目で動きを見守っていた。「国王」は1814年12月1日にカラデャ卿フリードリッヒ・フォン・ゲンツに「自分が最初の閣僚の一員になり、連中を逮捕し、残虐な敵に引き渡す」と書き送り、再び1815年1月14日に「国王には国家の警察長官と看守にしかなれない非常に堕落した自分がいる」と書いている。
スペイン王としてはスペインの金羊毛騎士団団長であり、この資格でウェリントン公アーサー・ウェルズリーをプロテスタントで最初の団員にした。
[編集] 暴動
1820年、失政からラファエル・デル・リエゴ大佐の軍の反乱から始まった1812年の憲法を支持する暴動を引き起こし、王はすぐに捕らえられた。両親に行ったように反乱軍に跪いた。フェルナンドは復帰するためにイエズス会を復興し、イエズス会は解放の時代に抑圧と専制政治に協力することになり、解放派を攻撃した。イエズス会派25人が、1822年にマドリードで殺害された。19世紀はイエズス会の追放と再建は、解放と専制政治のせめぎあいの連続であった。この混乱の際、1810年以来独立運動で揺れていた植民地ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)では、独立に強固に反対していたスペイン人王党派がフェルナンド7世を支持しリエゴ大佐のスペイン立憲革命を非難することでスペイン本国から心が離れてしまい、結果的にメキシコは独立することとなった。
1823年初頭にヴェローナ会議の結論としてフランスが「アンリ4世の家系にスペイン王位を引き継がせヨーロッパとその素晴らしい王国を保護するために聖ルイの神の加護を求めて」スペインに侵攻すると、5月に革命党はフェルナンドをカーディスに連行し、釈放されるまでフェルナンドは改正すると約束し続けた。
トロカデロの戦いとカーディス陥落で釈放されると、解放派が愛想を尽かす蛮行で復讐した。恩赦を行うと言った誓いを反故にして、弾圧政治を行った3年間、自分を「救出した人」に背き、アングレーム公が妨げる力もないのに軍事行動のために自分に授けられたスペイン専制政治を拒否して抵抗したことに対して殺戮することで復讐した。
晩年にはフェルナンドの体力は衰えた。もはや数カ月おきに運動として閣僚を入れ替えることはできなくなり、閣僚の何人かに国政を委ねた。日常の習慣は、自分のことを話すことであった。フェルナンドは怠惰になり、太りすぎて見るも無残な姿になった。1829年に両シチリア王国出身のマリーア・クリスティナ・デ・ボルボーンと4度目の結婚をすると、妻にフェリペ5世を王位継承者とする決まりを(スペインでは男性を優先する)破棄するよう説得された。この結婚で娘が二人だけ生まれた。自分の王朝が定めた王位継承の順序が変更されたことで、スペイン各地で怒りの声が上がり、必然的に内戦(カルリスタ戦争)になった。
体調が良ければ妻の支配を受けて政策変更に同意した。体調が悪ければ、兄弟のドン・カルロスのパルチザンの繰り出す宗教的な助言を恐れた。人生の最後にどんな決定をしたのか恐らくはっきりしていない。妻は夫の死の床では女王であり、自分の言いたいことを死に行く男に言わせ、自分の意志で死に行く男の手を動かすことができた。フェルナンドは1833年9月29日に没した。
国王は王になり神と繋がるためには閣僚より賢くなければならないとは、狂信的な王党派が頻繁に口したことであった。フェルナンド7世の時代以降、王権神授説のこの不適当な意見を誰も顧みなくなった。
フェルナンド7世はこの波乱に満ちた1820年 - 1823年に後にカサ・バレンシア伯爵が出版した日記をつけることを欠かさなかった。
[編集] 結婚と子供
フェルナンド7世は4回結婚した。
1802年、従姉妹の両シチリア王国出身のマリーア・アントニエッタ王女(1784年 - 1806年)(フェルディナンド1世の娘)と結婚した。子供はいなかった。
1816年、姪のマリーア・イサベル・デ・ブラガンサ(1797年 - 1818年)(ポルトガル王女で、姉のカルロッテとジョアン6世の娘)と結婚した。たった一人の娘は、4ヶ月で他界した。
1819年、マリア・ジョゼファ (サクソニ)(1803年 - 1829年)(マクシミリアンの娘)と結婚した。子供は生まれなかった。
最後に1829年、別の姪マリーア・クリスティナ・デ・ボルボーン(両シチリア王国)(1806年 - 1878年)と結婚した。マリーアは娘を2人生んだ。
- イサベル2世
- ルイーサ・フェルナンダ(1832年 - 1897年) アントン・ドルレアン(モンパンシエ公爵)と結婚し、子供が生まれた。
[編集] 『ブリタニカ百科事典』(1911年)の評価
- フェルナンド7世の役割はどのように扱おうと正しく認識しなければならない。フェルナンド7世より優れた王がいると考えられる場合であっても。一様に悪く言われていたことは間違いない。只一人の王位継承者だった時期は、家庭の伝統故に、恐らく政府から除け者にされていることに不満を言うことはできなかったのであろう。しかし王位継承者として自分が受け継ぐことになっている王の権威が低下していることと母の愛人である王のお気に入りの権力に憤慨することは可能であった。民衆蜂起の指導者になったら、支持され、良い言い訳ができたであろう。フェルナンドのやったことは、最初の妻ナポリのマリア・アントニエッタに唆されて意図のはっきりしない陰謀に加わったことである。1806年にマリアが死ぬと、腰巾着が画策する別の陰謀事件に引き込まれた。国事犯として送られたヴァランサイで低俗な生活に現を抜かし、自分の所為で言いようのない苦難を受けている民衆に起きたフランスの勝利を賞賛することに良心の呵責を感じなかった。
[編集] 参考文献
- この記述はパブリックドメインの百科事典『ブリタニカ百科事典第11版』("Encyclopædia Britannica" 1911年版)に基づいています。
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