フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)
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フェルディナント2世(Ferdinand II、1578年7月9日 - 1637年2月15日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1619年 - 1637年)、オーストリア大公(在位:1619年 - 1637年)、ボヘミア王(在位:1617年 - 1619年、1620年 - 1627年)、ハンガリー王(在位:1619年 - 1625年)。三十年戦争を引き起こした皇帝として知られる。
オーストリア・ハプスブルク家に生まれる。マクシミリアン2世の弟カール大公の子であり、ルドルフ2世、マティアス兄弟の従弟に当たる。幼少からイエズス会の教育を受けたことから、カトリックの保守、拡大に努力する。皇帝即位前にはシュタイアーマルク公であったが、領国でプロテスタントの反乱が起こるかも知れない状況にも関わらず、1618年のプラハ窓外投擲事件を受けボヘミアへ派兵した。
カトリック連盟の雄、バイエルン公(のち選帝侯)マクシミリアン1世と協力し、白山の戦いでティリー伯指揮下の連合軍による勝利を現出する。しかし、北方からデンマーク王クリスティアン4世の侵入を受け、急遽フリートラント侯ヴァレンシュタインを召喚し軍を編成、これを撃破したものの、その後ヴァレンシュタインの解任と、スウェーデン王グスタフ2世アドルフの侵入による再召喚で醜態を見せる。1634年にヴァレンシュタインが新教徒と和平工作をしていると報告を受けた皇帝は、暗殺命令を下して実行させた。これによって旧教軍の足並みが乱れ、新教軍の大反撃を呼び込んだのである。
晩年にはスペインを参入させ、一時スウェーデン軍を破らせるが、主導権を奪い返す事は出来なかった。さらに同じ旧教徒であるフランスの介入も許した。1635年にドイツ諸侯と交わしたプラハ条約は、結局、何の効力もなかった。その後はスウェーデン軍の跳梁を許し、同じカトリックのフランスにも敗れるなど失態を重ね、戦局を打開できないまま、1637年に死去。息子のフェルディナント3世が後を継いだ。
[編集] 関連項目
- 神聖ローマ皇帝
- 1619 - 1637
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- 先代:
- マティアス
- 次代:
- フェルディナント3世
- ハンガリー王
- 1619 - 1625
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- 先代:
- マティアス
- 次代:
- フェルディナント3世
- ボヘミア王
- 1617 - 1619
1620(復位) - 1627 -
- 先代:
- マティアス
フリードリヒ(冬王)
- 次代:
- フリードリヒ(冬王)
フェルディナント3世