ピエール・リトバルスキー
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ピエール・リトバルスキー(Pierre Littbarski、1960年4月16日 - )は、ドイツ出身のプロサッカー選手・コーチ・監督。愛称は「リティ」。
ケルン時代は背番号10でキャプテン。日本では選手としてジェフユナイテッド市原、ブランメル仙台に所属、監督として日本サッカー協会公認S級ライセンス取得後、横浜FC、オーストラリアサッカープロリーグのシドニーFCなどを率いた。シドニーFCでは2005年、オセアニア・クラブチャンピオンシップ優勝に導いた。
また、西ドイツ代表としてワールドカップに3回出場し、優勝1回、準優勝2回。73試合に出場し、18得点を上げた。
ドイツ人の前妻との間に2女、日本人の現夫人との間に2男を設けている。親日家であり、日本語も話せる。露天風呂に入る時に明らかに水位の低い風呂に、水泳選手のように飛び込んだこともある。
[編集] 経歴
- 1978~1986: 1FCケルン
- 1986~1987: ラシン・パリ
- 1987~1993: 1FCケルン
- 1993~1995: ジェフユナイテッド市原
- 1996~1997: ブランメル仙台
- 現役引退
指導暦(監督)
- 1999~2000: 横浜FC(JFL)
- 2001:バイエル・レバークーゼン (独、コーチ)
- 2001~2002: MSVデュースブルク(独2部)
- 2003~2004: 横浜FC(Jリーグ2部)
- 2005: シドニーFC(豪)
[編集] プレースタイル
ドイツ人プレイヤーには珍しく、非常に小柄ながら繊細なボールタッチでしなやかなドリブルを得意としたテクニシャン。そのため「ドリブラルスキー」というニックネームもついている。サイドを崩してセンタリングを上げるプレーもさることながら、中央に切れ込んでのシュートも得意としていた。選手層の厚いドイツ代表で3度W杯に出場している。若手の時は不動のレギュラー。1982年ワールドカップスペイン大会準決勝のプラティニのいた対フランス戦。チームの全3得点のすべてに絡んだ。特に前半17分、相手GKの弾いたボールを蹴りこんだ先制ゴールは今もよく映像で流される。中堅になってから控えに回ることが多くなったが、1990年大会では決勝トーナメント以降レギュラーとなり、決勝戦でもフル出場している。西ドイツ代表はその大会で引退し、不動の背番号7はアンドレアス・メラーに譲った。ポジションは、若手時代は右ウィング、後年ドリブルの技を磨いて中盤に下がった。ケルン時代は、常に背番号10でキャプテンであった。
日本に来る際に、理想のプレイはと聞かれ「フィールドプレイヤーを全員ぶっちぎってから、相手キーパーのまわりをドリブルして周り、ヒールキックでゴールを決めるのが理想」と語っている。
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