パテート・ラーオ
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パテート・ラーオ(Pathet Lao)は、1950年代から1970年代にかけてのラオスにおける共産主義革命勢力。
第二次世界大戦後、ラオスではレジスタンス組織のラオ・イサラ(Lao Issara、自由ラオス)が結成され、1945年10月に臨時政府を樹立した。その後、この政府はフランス軍のラオス制圧を受けてタイ王国に亡命したが、1949年にラオス王国がフランス連合内の協同国として独立すると、亡命政府は王国政府の懐柔を受けて解散した。しかし、王国政府の懐柔に妥協しなかった旧ラオ・イラサの左派勢力は、ベトミン(Viet Minh)およびインドシナ共産党(Indochine Communist Party)に触発され、スパーヌウォン王子(Prince Souphanouvong)およびインドシナ共産党のカイソーン・プムヴィハーン(Kaysone Phomvihane)を主導者として、1950年8月に「ネオ・ラオ・イサラ」(Neo Lao Issara、ラオ解放戦線)を組織した。
1953年、ネオ・ラオ・イサラの戦闘部隊であった「パテート・ラーオ」(ラオス愛国戦線)は、ベトミンと協力してラオス北西部を支配下に置いた。そして1956年12月、ネオ・ラオ・イサラはパテート・ラーオと改称し、1957年にはラオス王国政府と統一政府樹立宣言を行った。
その後、サナニコンによる親米政権がパテート・ラオを弾圧。1959年、パテート・ラーオ軍と政府軍の間で内線に突入。1960年、中立派がさらにクーデターを起こし、その後、アメリカ政府支援のラオス王国政府と北ベトナム支援のパテート・ラオの内戦状態が続き、ベトナム戦争と関連しアメリカ軍はホーチミンルートの攻撃を行う。1973年、ラオス和平協定成立。1974年三派連合によるラオス民族連合が成立したが、1975年サイゴン陥落後、パテート・ラーオはラオス全土を制圧、王政を廃止し、ラオス人民民主共和国を成立させた。
その後、ラオス国家建設戦線と改称したが外国では現在でもこの名称が使われる。