ラオス王国
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ラオス王国(Kingdom of Laos)は20世紀のラオスに存在した歴史上の王朝。旧ルアンパバーン王国とチャンパーサック王国の統合によって、近代国家としてのラオスの領域を確定させた。首都はヴィエンチャンに置かれていたが、旧ルアンパバーン王国の王族が国王を務めていた為、王宮の所在地はルアンパバーンであった。なお、今日のルアンパバーンは町全体が世界遺産に登録されており、かつての王宮も保存されている。
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[編集] 独立までの経緯
仏領インドシナ連邦下のラオスは、北部のルアンパバーン王国と南部のチャンパーサック王国とに分裂していた。そのような状況は第二次世界大戦下でも続いていたが、1945年3月9日に日本軍が仏印処理を断行して植民地政府の権力を握ったことで状況は変わった。4月初めにルアンパバーンに到着した日本軍は、4月8日にルアンパバーン王国のシーサワーンウォン王をラオス王国の国王として、ラオス王国のフランスからの独立を宣言させた。この独立は日本軍に強制された形式的なものであり、またチャンパーサック王国が存続していたことから、王国の支配はラオス全域には及んでいなかった。だが、従前の仏領インドシナ連邦の支配体制が崩れたことで自立への新しい道が開け、ルアンパバーン王国時代から首相職にあったペサラート(ルアンパバーン王国の副王の王子)は行政のラーオ族化を進めていった。しかし、同年8月15日に日本が連合国に降伏すると、王国の指導者や王族の間で意見の対立が生じるようになり、結果的にそれがラオス人民民主共和国の成立に至るまでの騒乱の源となった。
日本が第二次世界大戦で敗北すると、日本軍の後ろ盾を失ったシーサワーンウォン王はラオス独立の宣言を撤回した。これに対し、独立を求める民族主義者達はレジスタンス組織のラオ・イサラ(Lao Issara、自由ラオス)を結成し、同年10月に臨時政府を樹立した。しかし、1946年4月にフランス軍がラオスを再制圧し、ラオ・イサラの指導者達はタイ王国に亡命した。フランスは同年8月、親仏派のシーサワンウォン王に対し、フランス連合における統一ラオス王国の王として内政の自治権を与えた。それを受け、シーサワンウォン王は1947年5月に憲法を制定し、ラオスを立憲君主国とした。1949年7月19日、第一次インドシナ戦争を戦っていたフランスは、同年6月に成立したベトナム国の正統性を強調し、かつインドシナ全域に影響力を残すために、ラオスをフランス連合内の協同国として独立させた。その後、王国政府の懐柔により、タイに亡命していたラオ・イサラの指導者達は、亡命政府を解散してその多くが国内に戻った。しかし、王国政府の懐柔に妥協しなかったラオ・イラサの左派勢力は、ベトミン及びインドシナ共産党に触発され、スパーヌウォン王子やカイソーン・プムヴィハーン(インドシナ共産党員)を主導者として、1950年8月にネオ・ラオ・イサラを組織した。
[編集] 内戦と消滅
ネオ・ラオ・イサラは、ラオス北東部のサムヌア省に臨時抗戦政府を打ち立て、1953年4月には戦闘部隊のパテート・ラーオが、ベトミンとの連帯下でラオス北西地域を支配下に置いた。しかし1954年には、ジュネーブ協定のラオス条項によって、ベトミン軍とフランス軍のラオス撤退と共に、パテート・ラーオはラオス北部の2省に移動させられ、国際休戦監視委員会が停戦を監視するために設置された。フランス軍の撤退により、長年に亘るフランスのラオス侵攻に終止符が打たれた。しかし、それによりインドシナ半島におけるフランスの影響力が低下すると、代わって1955年から王国政府に軍事援助を始めたアメリカの影響力が増大してきた。
1957年11月、王国政府の首相で中立派のスワンナプーマ王子と、異母兄弟でパテート・ラーオ(1956年にネオ・ラオ・イサラを改称)議長のスパーヌウォン王子は、前年以来の交渉の結果として第1次連合政府を組織することに同意した。しかし、パテート・ラーオに危機感をもつ右派勢力はスワンナプーマ王子を排除し、1958年8月には保守的なプイ・サナニコーンに親米的な右派単独政権を組織させ、パテート・ラーオの閣僚らを逮捕、投獄していった。そのため、パテート・ラーオはゲリラ戦を再開したが、ソ連がパテート・ラーオを、アメリカが右派勢力を支援したことから、ラオスの内戦は東西の冷戦を反映した代理戦争の様相を示すようになった。その後、1960年8月に落下傘部隊の司令官コン・レ大尉が、右派政権に対するクーデターを起こして首都ヴィエンチャンを制圧した。そして、その後生じた対立する党派の争いの中で、中立派のスワンナプーマ王子による内閣が成立した。しかし、スワンナプーマ王子は連合政府の中に左派=パテート・ラーオ勢力を取り込もうと企て、結果的にアメリカに支持された右派軍の反乱を招いたことから、1960年12月にはカンボジアへの亡命を強いられた。
その後、反共主義者のブンウムが首相に就任したが、1961年半ばには、コン・レひきいる中立派軍と手を結んだパテート・ラーオが、ラオス国内のほぼ半分の支配権を獲た。同年5月、ラオス内戦の国際的な拡大を懸念したアメリカ、ソ連、イギリスの呼びかけで、左派、中立派、右派の3派間で停戦が実現し、ラオスに関する14カ国会議がジュネーブで開かれた。そして、1962年6月のジャール平原協定によってスワンナプーマ王子を首相とする第2次連合政府が成立し、同年7月にはラオスの中立と外国軍の撤退を定めたジュネーブ協定が国際的に認められた。しかし、それでも3派の対立はなおも続いた。中立派内にも対立が生じ、1964年5月には、スワンナプーマ王子が右傾化した一部中立派と右派とを統合した。そのため、パテート・ラーオのスパーヌウォン王子はこれをジュネーブ協定違反とし、スワンナプーマ王子を連合政府の正当な首相としてみとめないと主張した。そして、1965年には、パテート・ラーオと政府軍の間で公然と戦闘が始まった。
1960年代半ばになると、ラオスはベトナム戦争に引き込まれ始めた。北ベトナム軍は、南ベトナムで戦う兵力の補充経路として、ラオスの東・南部に存在するジャングルの小道(ホーチミン・ルート)を利用した。そのため、1970年にアメリカ軍はホーチミン・ルートへの爆撃を激化させ、1971年2月にはベトナム共和国軍が同ルートを切断するためにラオス南部に侵攻した。ただし、南ベトナム軍はパテート・ラーオによって撃退され、同ルートの切断を果たすことができなかった。その後、1971年末からパテート・ラーオが軍事的に優位になると、1972年10月からヴィエンチャンで和平会談が開かれ、1973年に平和回復と民族和合に関する協定(ラオスにおける平和の回復及び民族和解に関する協定)が調印された。そして、1974年4月にはスワンナプーマ王子を首班とする第3次連合政府が成立した。しかし、1975年4月のカンボジアとベトナムにおける共産勢力の勝利で勢いを得たパテート・ラーオは、同年6月に全ラオスを制圧し、同年12月に開催された全国人民代表会議で、王制の廃止と連合政府の解体、そしてラオス人民民主共和国の成立が宣言した。これにより、右派閣僚や官僚は国外に亡命し、1975年前後には30万人を超えると言われる程のラオス難民が発生した。
[編集] 国王一覧
以下はラオス王国亡命政府を組織しラオス国王の王位を主張している人物である
[編集] 年表
- 1945年
- 1946年
- 1947年・5月:憲法を制定し、ラオスを立憲君主国と規定。
- 1949年・7月19日:フランス連合内の協同国として独立。
- 1950年・8月:ラオ・イサラの左派(共産主義)勢力がネオ・ラオ・イサラを組織。ラオス北東部に臨時抗戦政府を樹立。
- 1953年
- 1954年・7月21日:ジュネーブ協定によりフランス軍が撤退。これ以降、王族に対するアメリカの影響力が強まる。
- 1956年・?年:ネオ・ラオ・イサラがパテート・ラーオに改称。
- 1957年・11月:王国政府とパテート・ラーオが第一次統一政権樹立を宣言。
- 1958年・8月:プイ・サナニコーンの親米的な右派単独政権が成立し、パテート・ラオを弾圧。
- 1959年
- 1960年・8月:中立派のクーデターが起こり、コン・レ大尉が軍事政権樹立。右派、中立派、左派(パテート・ラーオ)の三者間で内戦となる。
- 1961年・5月:米英ソの呼びかけで、停戦が実現。
- 1962年
- 6月:ジャール平原協定により、第2次連合政府が成立。
- 7月:ラオスの中立と外国軍の撤退を定めたジュネーブ協定成立。
- 1964年・5月:スワンナプーマ王子、右傾化した一部中立派と右派を統合。パテート・ラーオがこれをジュネーブ協定違反と主張。
- 1965年
- 1970年
- ?月:米軍のラオス空爆が激化。
- 2月:ジャール平原攻防戦。
- 1971年・2月:ホーチミン・ルート遮断を目的として、南ベトナム軍が侵攻。
- 1972年・10月:ヴィエンチャンで和平会談が始まる。
- 1973年・2月:「ラオスにおける平和の回復及び民族和解に関する協定」成立。
- 1974年・4月:三派連合によるラオス民族連合(第3次連合政府)が成立。
- 1975年
- 4月30日:サイゴン陥落によりベトナム戦争が終結。乗じてパテート・ラーオが攻勢を仕掛ける。
- 5月:右派勢力を追放。
- 6月:パテート・ラーオがラオス全土を制圧。
- 12月:パテート・ラーオが王政を廃止し、共産主義国家のラオス人民民主共和国が成立。