ドクメンタ
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ドクメンタ(documenta)はドイツ連邦共和国中央部(かつての東西ドイツ国境付近)、ヘッセン州の小さな古都カッセルで1955年以来、5年おきに行われている、現代美術の大型グループ展。
世界中から集めた現代美術の先端を、あるテーマを設けて一同に紹介するという方針で、美術界の動向に与える影響力が大きく、世界の数ある美術展の中でも「ヴェネツィア・ビエンナーレ」に匹敵する重要な展覧会の一つである。
一人のディレクターがテーマ選定、作家選定の全責任を負う。(ディレクターが数人のキュレーターをさらに集めてチームを組むこともある。)他の美術展にあるような「賞」制度は、ない。
作品はフリデリチアヌム美術館を中心に、市内各地を舞台に展示される。近年は一回で欧州全土から60万人程度の観客を集めており、町おこしにもなっている。
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[編集] 沿革
[編集] その1・前衛芸術の復権
第1回ドクメンタは1955年に、当地在住の美術家、建築家、教師であったアーノルド・ボーデが提唱して西ドイツ連邦政府の行事の一環として開催された。戦後ドイツの芸術の復興を掲げ、20世紀の重要な前衛芸術運動の作家たち(パブロ・ピカソ、ピエト・モンドリアン、ジャン・アルプ、アンリ・マティス、エルンスト・ルードヴィッヒ・キルヒナー、エミール・ノルデほか多数)の業績を振り返る内容の展覧会であった。
- 特に、ナチス・ドイツ時代の1937年に行われた「退廃芸術展」で槍玉に挙げられ弾圧された芸術家たちの名誉回復が図られた。
- ひいては第二次世界大戦以後、「文化と芸術の国」から「ファシズムと芸術破壊の国」へとイメージダウンしたドイツ自体の名誉回復をも意図していた。
- また東西ドイツ国境で開催することで将来の統合後のドイツの地理的にも文化的にも中心になることを目指したが、当面は東側に対する西側(欧米)の自由で先端的な美術のショーケースとして開催された。ゲルハルト・リヒターをはじめ、多くの東ドイツの芸術家がドクメンタを訪れた後に西ドイツへの移住を決意している。
[編集] その2・世界の最重要な展覧会へ
第2回以降はカッセル市やヘッセン州の出資による「ドクメンタ有限会社」が設立され、以来現在までこの会社の企画・運営によって当初はほぼ4年おき、現在はほぼ5年毎に開催してきた。
- ドクメンタ2は回顧展から一転、同時代の(西欧の)美術動向を一同にまとめた展覧会となった。
- ドクメンタ3以来、同時代の美術の動向を端的に示すようなテーマが決められ、テーマに沿った作品を鑑賞できるようになり、展覧会全体としての統一感が上がった。
- ドクメンタ4以来、物故者は除かれ同時代の作家だけが参加するようになり、同時代美術(現代美術)のみの展覧会となった。これにより、今起こっている美術の現場をより反映した展覧会になった。
- このころ、世界最大の美術展ヴェネツィア・ビエンナーレ(国ごとのパビリオンが賞をめぐって展覧会を開催する)が、「美術界のオリンピック」としてアメリカ、フランスほか大国同士のメダル争いの場と化し、美術の動向を考える場として有効に機能しなくなったため、国別展示ではなくテーマ展であるドクメンタの「世界最大の現代美術展」としての重要性が非常に高まった。
- ドクメンタ5以来、ディレクター(芸術総監督)が任命され、テーマや作家選定はディレクター個人に一任されることになり、展覧会の訴えたい内容がより明確になった。特にドクメンタ5はハラルド・ゼーマン(1933年~2005年、スイス生まれ)が任命され話題となった回であった。彼は1969年にベルンで「態度が形になるとき」(When Attitudes Become Form)というコンセプチュアル・アートの伝説的な展覧会をまとめ上げた当時気鋭のキュレーターで、彼の監督したドクメンタ5はヨゼフ・ボイスらを大々的に起用し、多くのハプニングやパフォーマンスアートを実行させ「美術とは何か」を問うた、ドクメンタ史上最も美術界に対するインパクトが大きい展覧会であった。しかし観客の評判が悪く展覧会は赤字に終わり、カッセル市が彼を告訴するほどであった。以降、ディレクターの人選と手腕、打ち出すテーマが毎回賛否両論を呼ぶようになった。
[編集] その3・冷戦後の混乱
ドクメンタは毎回白人男性がディレクターだったため必然的に選ばれる作家も西欧か北米の作家が多くなり、偏りが指摘されていた。特に1980年代にはアジアや中南米、アフリカの作家を取り上げる展覧会が各地で開催され大きなインパクトを起こし(例:「大地の魔術師たち」展、ポンピドゥー・センター)、またフェミニズムが美術の世界でも攻勢を強め、第三世界の作家や女性作家を取り上げることが課題となった。
そして冷戦後、ドクメンタは対東側の美術戦略拠点の役割を終え、現代美術自体が欧米だけでなく旧東側諸国やアジア・アフリカ・中南米など多様な国からも発信されるようになった。それらを一堂に集めて一つに方向付けることは困難になり、もはやドクメンタの意義は薄らぎ形骸化したと指摘されるようになった。
- 1992年の冷戦終結後初のドクメンタ9ではベルギー人ヤン・フートがディレクターに選ばれたが、統一テーマは設けられなかった。また物故者であるにもかかわらずヨゼフ・ボイスの作品が出展された。37カ国からの作家が選ばれ、日本人は川俣正、舟越桂、竹岡雄二、片瀬和夫、長沢英俊が出展したが欧米中心のきらいはあり、近郊ではドクメンタに対抗した『他文化との遭遇展』が開催された。
- 1997年のドクメンタ10で初の女性ディレクター、フランス人カトリーヌ・ダヴィッドが就任したが、前回よりも保守的な欧米中心の作家選定が批判と失望を招いた。
- 2002年のドクメンタ11は一転して、初めてのアフリカ出身者であるナイジェリア人オクウィ・エンヴェゾーがディレクターに就任し、「グローバリゼーション」を題材にした。多様な国からの作家参加と、旧植民地や内戦をテーマに極めて政治性や社会性の強いドキュメンタリー的な映像作品の多さが特徴であった。他都市での巡回展との共催、シンポジウムなどを積み重ねて展覧会本番に結びつける展覧会作成のプロセスなど、いくつかの手法がわかりにくいと批判されたが、今後の展覧会のあり方の参考として注目も浴びた。
[編集] データ
- documenta 1, 1955年7月16日~9月18日 作家数148人
- documenta 2, 1959年7月11日~10月11日 作家数392人
- documenta 3, 1964年6月27日~10月5日 作家数280人
- documenta 4, 1968年6月27日~10月6日 作家数150人
- documenta 5, 1972年6月30日~10月8日 作家数218人 ディレクター、ハラルド・ゼーマン(Harald Szeemann)
- documenta 6, 1977年6月24日~10月2日 作家数622人 ディレクター、マンフレート・シュネッケンブルガー(Manfred Schneckenburger)
- documenta 7, 1982年6月19日~9月28日 作家数182人 ディレクター、ルディ・フックス(Rudi Fuchs)ほか
- documenta 8, 1987年6月12日~9月20日 作家数150人 ディレクター、マンフレート・シュネッケンブルガー(Manfred Schneckenburger)
- documenta 9, 1992年6月13日~9月20日 作家数189人 ディレクター、ヤン・フート(Jan Hoet)ほか
- documenta 10, 1997年6月21日~9月28日 作家数120人 ディレクター、カトリーヌ・ダヴィッド(Catherine David)
- documenta 11, 2002年6月8日~9月15日 作家数118人 ディレクター、オクウィ・エンヴェゾー(Okwui Enwezor)ほか
- documenta 12, 2007年6月16日~9月23日(予定) ディレクター、Roger-Martin Buergel
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 美術展覧会 | コンテンポラリーアート