テルミドールのクーデター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テルミドールのクーデターは、1794年7月27日(フランス革命暦II年テルミドール9日)に起きた、フランス革命時における山岳派独裁に対する反対派が起こしたクーデターである。これにより、ロベスピエールとその一味(サン・ジュスト、クートン、ルバなど)は処刑、失脚した。テルミドール9日のクーデター、テルミドールの反動ともいう。
テルミドール(Thermidor)とは、革命時制定された革命暦(後にナポレオンにより廃止される)の熱月を意味する。この事件をもってフランス革命の終焉とする説もある。事実的には、市民革命の終わりと言えるだろう。
目次 |
[編集] 背景
ジャコバン派が1793年から94年にかけてフランス内外の戦乱を収拾した後、国民は恐怖政治に嫌気が差すようになっていた。94年春にエベール派とダントン派が粛清されると、ジャコバン派の一部は国民公会の中間派と密に協力してロベスピエールを打倒しようとした。また、恐怖政治の先鋒としてパリ以上に行き過ぎた弾圧を行っていた地方派遣議員(ジョゼフ・フーシェ、ジャン=ランベール・タリアンら)は、ロベスピエールの追及を恐れて先制攻撃を画策していた。
一方、恐怖政治の中心だった公安委員会も、ロベスピエール派(ロベスピエール、サン・ジュスト、クートン)と穏健派(ラザール・カルノーなど)に分裂していた。それに嫌気が差したのか、ロベスピエールは6月半ばから7月26日まで、公の席にほとんど姿を見せなかった。その間にも反対派の陰謀は進行していた。
[編集] テルミドールの演説
7月26日(テルミドール8日)、国民公会でロベスピエールは、「粛清されなければならない議員がいる」と演説をした。議員達はその名前を言うように要求したが、ロベスピエールは拒否。攻撃の対象が誰なのかわからない以上、全ての議員が震えあがった。反対派たちの結束はこれで決定的なものとなった。
その晩、ロベスピエールはジャコバン・クラブで演説し、「諸君がいま聞いた演説は私の最後の遺言である」と発言した。彼は翌日の悲劇を予感していたのかもしれない。
[編集] テルミドール9日の始まり
翌7月27日(テルミドール9日)午前11時、ロベスピエールらは国民公会に臨んだ。しかし、議長のジャン=マリー・コロー・デルボワ(公安委員会のメンバー)やタリアンらはロベスピエールらの発言を阻止。
場内から「暴君を倒せ」と野次が上がる中、タリアンはロベスピエール派の逮捕を要求し、午後3時、ロベスピエール、クートン、サン・ジュスト、ルバ、オーギュスタン・ロベスピエール(ロベスピエールの弟)らを逮捕する決議が通過した。
[編集] ジャコバン派の最後
その後、パリ市のコミューンが蜂起し、その隙にロベスピエールらはパリ市庁舎に逃げ込む。市庁舎にはロベスピエールを守るべく司令官フランソワ・アンリオ(泥酔していたと言われる)率いる200人の国民衛兵と3500人の群集が集結してきたが、独裁者と呼ばれたくないロベスピエールに彼らの先頭に立つ気はなかった。この間に、国民公会では、議員達がロベスピエールらコミューンに従うものを法の外に置くことを決定した。深夜になって国民衛兵は引き上げ、ポール・バラス率いる国民公会の派遣軍はあっさり市庁舎を占領。ルバはピストル自殺し、ロベスピエールは、19歳の少年兵(後のフランス軍准将シャルル・アンドレ・メルダ)に顎を打ち砕かれて仲間と共に逮捕された。
翌7月28日、革命裁判所はロベスピエールらに死刑判決を下した。午後6時、ロベスピエールら22人は革命広場でギロチンにより処刑された。翌日には70人のコミューンのメンバーが処刑され、その翌日には12人が同じ罪状で処刑された。